凍雲篩雪(四月)

小保方晴子を攻撃し続ける人たち

 今回は別のことを書くつもりだったのだが、小保方晴子について攻撃を続ける人たちがいるので改めて書く。佐藤優は『文藝春秋』四月号で、サイエンスライターの緑慎也と対談しているが、なぜ対談相手を佐藤貴彦にしなかったのか。佐藤はここで『あの日』でなぜ笹井良樹の遺書を引用しなかったのかと述べているが、遺書は公開されていない著作物だから、著作権継承者の許可がなければ引用できないのを知らないのか。
 佐藤優は『一冊の本』(朝日新聞出版)の三、四月号にも小保方攻撃を書いているが、これは須田桃子『捏造の科学者』(文藝春秋)の擁護になっている。須田は毎日新聞記者で、小保方にひどい取材をしたとされているが、この著作は昨年の大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しており、佐藤優片山杜秀梯久美子とともにその選考委員であり、選評を見ても三人ともこの著作を推している。自分が推した受賞作なのだから、佐藤優は善意の第三者とは言えない。佐藤は須田が、小保方一人に責任を押しつけていないと言うが、ならばなぜ『捏造の科学者たち』ではなく、単数なのだろうか。しかもこの著作は、理化学研究所の最終報告が出る前に刊行されており、大宅賞を狙って文藝春秋から出されたのではないかとも指摘されている。佐藤優のは「大人の事情」がらみであることがすけて見える。
 『週刊新潮』の高橋昌一郎は、いったんは別の話題に移ったが、何か理由でもあったのか、小保方攻撃を再開して、四月六日号(三月三十一日発売)でもまだ続けている。週刊誌の一頁分で、しかも対話形式だから、話はごまかされているし、私が高橋に読むよう勧めた佐藤貴彦の著作も出てこない。
 『週刊ポスト』では中川淳一郎が、ネット上で小保方を擁護する人たちをバカにしているが、相変わらず「スタップ細胞はありまぁす」などと、言ってもいないことを言ったことにしている。
 『週刊現代』だけは、『あの日』の版元だけあって、この著作がよく売れていることと、小保方への「いじめ」的構造についての茂木健一郎らのコメントなどで構成した記事を載せたが、週刊誌などは盛んに小保方叩きをしたので、後始末に困っているというところだろう。四月はじめには小保方氏がウェブサイトを開設し、スタップ細胞のプロトコルを公開した。今後の展開が注目される。もっとも、多くのマスコミは相変わらず無視を決め込んでいるようで、こういう姿勢ははなはだ疑問である。
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 さて、宮野真生子(まきこ)の『なぜ、私たちは恋をして生きるのか』(ナカニシヤ出版、二〇一四)は、日本倫理思想史を専攻する著者は、一九七七年生まれ、京大出身の福岡大学准教授だが、九鬼周造の「「いき」の構造」を手がかりとして、恋愛における、他者と出会ってしまうことの偶然性について考察している。この十年ほど、学者による「恋愛」の本は、私の著作をちゃんと読んでいないために「恋愛輸入品説」の段階で止まっていたり、佐伯順子流の「色」と「愛」の分割を無批判に受け入れていたりする。だがこれは、ちゃんと私の関連著作を読んでいたので、ありがたく感じた。
 だがここで、改めて考えてみると、動物もまた、オスがメスに交尾を迫るということはあって、人間の恋愛もその延長上にあるのではないか、と最近の私はやや即物的に考えている。だが、動物になくて人間にあるのは、特定の異性(同性でも可)個体への執着であり、「この女(男)でなければダメだ」と思い込んでしまう機制にあるわけだ。
 セックスをしたあとで、女が男に執着するのは、動物行動学的にも説明がつく。問題なのは、セックスもしていない異性に執着する「恋」の謎である。動物にも執着はあって、犬は飼い主になついて、名犬ラッシーのように長い距離を渡ってきたりするが、果たしてメスへの執着はあるだろうか。
 結局、人間における異性への執着は、大脳の発達ゆえのもので、かつまた神経症的なものでもあるのだろう。恋というのは、新宗教に入るのと似たところがあり、よそから見れば、なぜあの宗教を選ぶのかと思われるのだが、当人にはその偶然の出会いが必然へと変わっている。それに対して、仏教やキリスト教に入信するのは、吉永小百合がいいとか原節子がいいとか言うのに似ていると言えようか。
 少し前に、女性の離婚後半年間の再婚禁止規定について違憲判決が出て、期間を短縮するなどと政府では言っているが、いったいたかが戸籍上の再婚禁止なぞということが、いかなる重要性をもつのであろうか。もちろんこの禁止は理由のないことではなく、生まれた子供の父親の問題なのだが、DNA判定もできるようになった現在では、この禁止に合理性はなくなったということでしかあるまい。
 だが、「再婚禁止」というのは、単に戸籍の上で夫婦になれないというだけのことであって、むしろ問題なのは、離婚後三百日以内に生まれた子が前夫の子とされることのほうであろう。
 もっとも私は、望まない妊娠をしてしまう人種というのがいまだ理解できずにいる。中には、意志的に、不倫でもコンドームを着けないということを望む女もいて、それは結局妊娠してその男との結婚に持ち込もうとしているからかもしれないが、ないしは生殖本能のなせるわざなのかもしれない。
 とはいえ、フェミニストの中には、結婚制度に反対する者もいて、そういう人たちはこういう問題にさして関心を持たない。
 それにしても、今世紀に入ってからのフェミニズムの凋落は驚くべきものがある。かつてフェミニスト学者とか論客として名をはせた人のほとんどは表舞台から姿を消し、上野千鶴子だけが、東大名誉教授として一人で残っている。これは別に上野が優れているからではなく、世渡りが巧みで、「おひとりさま」などというキャッチフレーズを作ったり、介護問題にシフトしたりがうまかったからである。
 そもそも、「男女雇用機会均等法」ができ、「男女共同参画社会」などと政府が言い出した時点で、フェミニストは基本的な闘争目標を失ってしまったのである。九五年二月号の『群像』で江藤淳と上野が対談して、江藤が、男女雇用機会均等法ができたのはフェミニストの大敗北だと言い、上野も同意しているが、江藤のほうは、闘争目標を失ったといういくらかの皮肉をこめており、上野のほうは半ばそれに同意しつつ、結局社会主義的政策を保守党政府が取り入れたように、フェミニズムはラディカリズムの牙を抜かれていくということを予想したのだろう。
 それから十数年たち、フェミニズムはすっかり「ゆるフェミ」になった。国連の女性差別撤廃委員会が、女性天皇を認めないのは差別だなどというのは、天皇制自体が身分制度なのだからばかげた話だし、夫婦別姓に潜む「家制度=家名存続」の話だってフタをされたままだ。