フィガロと茂兵衛

「凍雲篩雪」
 私は『谷崎潤一郎伝』以来、文学者などの伝記を書くのを一種のメインの仕事にしているのだが、どうも文学研究の世界では、伝記というのは研究の本筋から外れるものだという雰囲気がある。これは何なのだろうか。私と同期の加藤百合さんが修士論文西村伊作をやった時、小堀桂一郎先生が、「伝記は論文ではない」と厳しい調子ではなくやんわりと言い、実際に論文が完成すると、これは伝記ではなく論文だと言ったそうだが、なぜ伝記は論文でないのか、いま改めて私は訊きたく思っている。
 東大医学部の加藤周一が、中村真一郎のいる仏文科の鈴木信太郎の講義に出たら、マラルメの借りた家の家賃がいくらかという話を一コマやっていて、加藤が驚くと、中村が、マラルメが生まれるまで一年かかったんだぜ、と言ったということが『羊の歌』に書いてあるが、してみると、昔は伝記研究は東大教授がやるような古典的な手法だったことになる。それがテクスト論やら作品論やらが出てきて、立場が後退したのだろうか。国文学の世界では、『国語と国文学』などを見ても、伝記的研究というのは近代においてはほとんど見かけず、近代に関しては、存在意義がやや疑わしい論文が少なくなく、研究史上重要な論文は、かつて谷沢永一が痛罵した紀要論文のほうにかえってあったりする。こういう光景を見ていると、文学部不要論への反論として、実学でなくても意味はあるなどと言う前に、具体的に何が研究されていて、この状況でいいのかという議論をすべきだろうと思うのである。あと私は、特に有名ではない人物について伝記ないし履歴を明らかにするというのも重要な作業だと思っているのだが、これも現在の学界ではあまり認められないものらしい。
 ポストモダン精神分析が学問なのかという問題も徹底議論されていないし、人文系学問の世界はけっこう機能不全に陥っているのだが、まあ概して滅び行くものはそれに対して手を打とうとはしないものだ。
 世の中には、何かの加減で偉いことになってそのままずっと来てしまう人というのがいて、野田秀樹平田オリザなどはその類だろう。女優でいえば大竹しのぶなど、別に演技がうまいとも思わないがなぜか名優だということになっていて謎である。それはさて、NHKのBSで野田秀樹演出の、野田版「フィガロの結婚」をやっていたので、録画して観た。さすがにオペラとなると、野田も歌舞伎のようにぶち壊すことができず、小林沙羅のスザンナが愛らしかった。どういうわけか「フィガロの結婚」では、スザンナを愛らしい歌手がやり、アルマヴィーヴァ伯爵夫人を老けた女優がやることが多く、私が高三の時にテレビで観たカール・ベーム指揮の来日公演では、スザンナがルチア・ポップ、伯爵夫人がグンドゥラ・ヤノヴィッツだった。しかしポップとヤノヴィッツは三つしか違わないのだが、見た目はポップのほうがずっと若く見えた。
 それはさておき、この最後の場面では、伯爵夫人とスザンナが服を取り替えて、暗闇で伯爵とフィガロをだまそうとするのだが、フィガロはすぐに変装を見破ってスザンナをからかう。だが伯爵のほうは、どうもスザンナに化けた伯爵夫人と伯爵は、暗闇でセックスしてしまったようである。すると、これは妙に「大経師昔暦」に似ているなと気づいたのである。いわゆるおさん茂兵衛だが、こちらの筋はもうちょっとこみ入っていて、手代の茂兵衛は女将のおさんに恋していて、女中のお玉から口説かれても聞かず、一方主人以春の判を使ったことで咎められた茂兵衛を、お玉が、自分が頼んだのだと言ってかばう。その以春はお玉に気があって忍んでこようとしている。おさんはお玉の寝床に入って夫をやりこめようとし、待っていると、お玉に礼を言おうとした茂兵衛が忍んできて、人違いに気づかずセックスしてしまい、それから不義密通だというので二人が駆け落ちする。これは実説に基づいているが、ちょうどこの頃貞享暦への改暦があり、暦の製作販売を引き受ける大経師をめぐって陰謀があったともされている。
 入れ替えの趣向は、西鶴の『好色五人女』の「おさん茂右衛門」のほうが先である。こちらは、主人経師がおさんに惚れ込んで妻として連れ帰る話から始まっていて、これではさながら『セヴィリアの理髪師』から『フィガロの結婚』への流れと同じである。
 こうなると気になってくる。どうも全体に似すぎている。一番簡単な想定は、中世からルネッサンスにかけての時期の広い意味での文藝に、女主人と女中が入れ替わって主人を懲らしめようとする筋のものがあり、中東あたりを媒介にして東西へ広まったと想定するはずだが、国文学のほうでは、西鶴がどこからこの趣向を思いついたのかが研究されてはいないようで、国内に典拠は示されていないようである。
 一方ボーマルシェのほうは、国内に文献がきわめて少なく、鈴木康司の『闘うフィガロ』というボーマルシェ伝があるが、どうも日本で十八世紀フランス演劇を研究する人はマリヴォーばかりやっていて、ボーマルシェをやったのは鈴木だけらしく、その鈴木の解説文を読むと、ラ・ショッセという劇作家の喜劇「当世風の偏見」に、女好きな主人を懲らしめる趣向があるという。
 これにはフランス語のテキストがネット上にあったが、英訳が『モリエールの後継者たち』というアンソロジーに入っていたので、これをとりよせて読んだ。すると、鈴木氏は少し記憶違いでもしていたのか、そういう結末ではなかった。これはかねて妻をないがしろにしていた貴族が、妻への愛を改めて感じるのだが、当時の貴族社会では、妻への愛を表明するなどというのは恥ずべきことなので悩んでおり、しかも悪い友達の貴族が、妻への愛を表明したために町にいられなくなって妻とかけおちした貴族の話などする。だが最後は変装などして妻への愛を告白して(?)めでたしとなる芝居であった。ほかにも、女主人と女中の入れ替えの趣向のものはあるのだが、「フィガロー大経師」とは大分趣きが違うようで、今のところそのものずばりのものは発見できていない。
 ところでボーマルシェの本名はピエール=オーギュスタン・カロンなのだが、島原の乱の頃のオランダ商館長だったフランソワ・カロンの子孫だという説がある。しかし鈴木康司は、「ボーマルシェははたして日本のオランダ商館館長フランソワ・カロンの末裔か」(『中央大学文学部紀要』一九八八)で、フランソワの孫とボーマルシェの祖父の年齢差は十八しかなく、蓋然性は低いと述べている。しかしこの孫というのは嫡孫のことだから、次男の子といった可能性はあるわけで、とはいえ島原の乱の頃では、西鶴近松よりずっと前である。一方、ボーマルシェがオランダのプロテスタントの家系だとすると、毎年江戸に参府していたオランダ商館の一行の中から、西鶴はともかく、近松のほうは、正徳年間に大坂の歌舞伎で上演されているし、どこかから聞き伝えて、それがボーマルシェにまで届いた可能性もないではない。
 しかしこれでは論文にはならないのでここにメモとして書いておくが、何か気づいた人があったら教えていただきたい。