私大生

 大江健三郎出世作にして初期の代表作である「奇妙な仕事」は、私は二番煎じの「死者の奢り」や芥川賞受賞作「飼育」より優れていると思う。
 その中に「私大生」とあるのが、どうも私大出身者の反感を買っていたらしく、岡庭昇なども批判していて、岩波文庫の短編選集ではとうとう「院生」に変えられてしまった。
 いったい「私大生」という表現は差別的だろうか。「僕」「女子学生」「私大生」という並べ方のざらざらした感触は、あの作品全体をみごとに象徴していると思う。
 それに、この作品の語り手「僕」は、俯瞰的な語り手ではない。東大生だが人生に迷っている未熟で欠陥多き人間である。もっとも、純文学の主人公が、人間として円熟していたりしたらその方がおかしいのである。仮に「私大生」が差別的だとして、それはこの不完全な語り手である「僕」の発語として見たら、そこには東大生としての「僕」の、「私大生」を見下す意識が入っているかもしれず、それは「僕」の人間というのを浮かび上がらせているのである。そうである以上、この「私大生」をとってしまうのは間違いである。それは作品をぶち壊すことである。
 こういう、語り手兼主人公が、理想的人物でなければならないという奇妙な理念は、最近の芥川賞選考委員が「自己批評が足りない」と言う、その小説の基本的な読み方すら知らないあり方とみごとに対応しているのである。いったいなんで語り手兼主人公が、ブッダのような人間でなければならないのか。
 さらに言えば、その当時、私大生といったら、親が金持ち、ということを往々にして意味したのである。もうむちゃくちゃである。
小谷野敦