『グーテンベルグからグーグルへ』という翻訳書の筆頭訳者・明星聖子の訳者あとがきでの暴走ぶりが生半可じゃない。「私、この『編集文献学』って学問、好きじゃないかもしれない、いや、嫌い。嫌なんです。文学の後衛でぬくぬくしていたいんです」といった感じである。
 さらに、岩波書店の『漱石全集』の新しいのが出て、編纂者の名前がないことに気づいた明星は、岩波の編集者である秋山豊の本を読んで、これまで編集委員などとなっていた荒正人小宮豊隆は、漱石の生原稿を「見た」と言ってもちらっと見ただけで細かい校訂作業はしていないとあるのを見てショックを受ける。
 「全集」の編集委員に名前が出ている偉い人、たとえば井上靖などが、実際にはほとんど何もしていないことは常識で、明星という人は年齢不詳だが、多分私の三つ下くらいで、ずいぶんナイーヴだな、と思うのだが、そもそも漱石とか谷崎とか、普通に書いたものを活字にしてきた作家は、宮沢賢治カフカと違って、生原稿などさほど意味はないのだ、ということを明星は理解していない。
 だいたいテキスト・クリティークなどというのは、19世紀以前の、活字文明がない、または未発達の時代の文学作品が本来の対象であり、それ以後は、未発表の小説が発見されたとか、メジャーにならずに死んでしまって活字になったものも乱れているとかそういう時に重要になるのである。ただし日本近代文学の研究者などは、学者ぶりたいために、谷崎全集はテキスト・クリティークが済んでいない、などと言ってきたのである。
 江藤淳が『漱石アーサー王伝説』の冒頭でやった、「カイロコウ」のテキスト・クリティークなどというのも、江藤の激しい学者へのあこがれが生み出したもので、あんなのは博士論文の一部にすべきものではない。
 漱石とか谷崎とかいった作家の場合、重要なのはむしろ注釈をつけることのほうである。 
小谷野敦