関井光男と白地社

en-taxi』に、坪内祐三が死んだ関井光男のことを書いている。けっこう怪しい人だったという話で、早稲田予備校で資金を稼いで古書などを買いあさり、小さい出版社へ出入りしては博識で(おそらく)社主を感心させてそこのヘゲモニーを握るといったことである。
 中でも白地社の話。京都にある小さな出版社で、『而』(しこうして)などという文藝評論雑誌を出していた。関井はそこの覇権を握り、1990年代はじめ、関井、坪内、山口昌男は、日文研鈴木貞美研究会に参加していたという。日文研は桂の駅からバスかタクシーでかなり行った山の中にあり、バスだと遠回りなのでタクシーになる。私も以前はよく行ったが、今はタクシーが禁煙になったから、もう行くことはないだろう。
 坪内ら三人はそろって新幹線で京都へ行っていたのだが、ある時から、京都駅へ着くと、白地社差し回しの車が待っていて、日文研まで運んでくれるようになり、それが関井の手配で、弁当までついていたという。坪内が助手席で見ていると、運転手は屈辱的な顔つきをしていて、結局やめてもらったという。
 そのころ白地社は「叢書l'esprit nouveau」という文化評論シリーズを出していた。私が1992年にカナダから帰って、佐伯順子さんがやたら活躍していて、嫉妬に苦しんだことは前に書いたが、その年の暮れあたり、ふらりと浦和の須原屋へ行くことがあり、そこでそのシリーズの一冊の、後ろにある近刊予定書目に、佐伯さんの「乱れ髪のイメージ・シンボル」というのを見つけて、ああまた書くのか、と嫉妬で脂汗を流した。あとで聞いたら、和田桂子さんという英文学者がいて、私は89年に福岡大の比較文学会で会っているのだが、神戸女学院大卒で、中学で佐伯さんの先輩にあたり、誘われて企画会議に行ったら、書いてくれと言われて苦し紛れにそんな題名を言ったら載ってしまい、書く気がないので困っていた。
 その頃佐伯さんも鈴木研究会には行っていたが、鈴木からこっぴどく批判されたらしい。で、鈴木の論文の査読をさせられて、佐伯さんは、英語がひどいと言っていて、だが仕方なく称賛の文を書いていた。
 佐伯さんが博士号をとったのは92年春だが、初めは、坪内が90年まで勤めていた都市出版から出る予定だった。粕谷一希の会社だが、その後いつの間にか岩波から出ることになっていて、これは芳賀先生あたりが推薦したのだろうが、そのため都市出版では佐伯さんに恨みを抱いたらしく、私が、どうせサントリー学芸賞をとるんだろうと言ったら、都市出版の人が、粕谷は推さないと思いますよと言っていた。しかし粕谷はその時点では選考委員ではなかったから、ちょっと変に思ったが、これは山崎正和が総覧している賞なので、そっち側の話だろう。
 関井はその後、柄谷派に変わって近畿大学教授になるが、鈴木と柄谷は論敵だから、まあ異動したというわけ。(なおすが秀実氏によると、関井を呼んだのは後藤明生で、関井が柄谷を呼んだ由)