私は2012年1月から『出版ニュース』に「凍雲篩雪」という時事随筆を連載しているのだが、どうも読まれているとは思えない。読んでいる人はいるのだろうが、反響がない。それで古いほうから、適宜ここに移すことにした。題名は、急がされて苦し紛れにつけたもので、浦上玉堂の南画の題名である。
2012年4月
昔の文章を見ていると、「この作品は新潮昭和四十七年十月号に載せた」といったものを見ることがある。つまり『新潮』ではないのである。だが、今ではこういう書き方はほとんど許されなくなっている。校閲がカギかっこ指定をしてくるからである。『』か「」かということには、いつも頭を悩まされるが、端的にいえば、どっちでもいいのである。芥川龍之介の「羅生門」が、短編だから「」なのか、短編と長編の区別は曖昧だから『』なのか、そんなことは書き手がその時の気分に応じて書いたままでいいのである。書き手が校閲に期待していることは、間違いを直してもらうことであり、「」か『』か、ということは、どう書いても間違いとは言えないのであって、こういうことをいちいち統一していこうというのは、要するに「統制」と同じことであり、言語というのは多様、不統一でいいのである。「パロール」などと言う評論家、学者の類は、なんでこういう校閲によるパロール圧殺みたいな動きに何も言わないのだろう。
『VOICE』五月号は「橋下徹に日本の改革を委ねよ!」というでかでかとした文字が表紙に踊っていてぎょっとさせられる。中で、宮崎哲弥、萱野稔人、飯田泰之の鼎談があるが、中で、萱野が、日本は立憲君主制なので首相公選制には反対だ、と言い、
宮崎 あなたはバリバールの弟子だから一般に左翼とみなされているはずだけど、「天皇は元首」なんてさらっと認めちゃっていいの?(笑)
萱野 私は天皇制を否定していませんから。
というところがあるが、私は萱野という人をよく知らないのだが、この発言には「保身」を感じた。もちろん、天皇制を否定しない以上、人権思想を認めないということだから、萱野はこれについて、鼎談で流さずにきちんと説明すべきであろう。どうも近ごろ、対談とか座談会で、さらりと重大なことを言って、文章できちんと説明しないといった作法が、宮台真司以降の論客の間で一般的なようだ。なお橋下を「ファシスト」とするのは当然のことで、そもそも駅構内を全面禁煙にすること自体ファシズムなのであり、そこで喫煙した助役を首にする権力を持っているわけだし、これについて、東浩紀などは、質においてファシズムだということを理解しておらず、量と質の違いが分かっていない。ファシズムとは、対話に応じないことで、橋下は、新聞社説やテレビでの発言などには応答するが、もともと新聞はテレビはある程度統制されているのであり、選択的にしか対応していないのである。もちろん「君が代」を強制する橋下が、自分は人権思想とか人間の平等など信奉していない、と発言してくれたら、それはそれで筋は通るわけだ。
『文學界』五月号の、西村賢太の巻頭小説「棺に跨がる」を読んで私は、ぎょっとした。いつもの「秋恵」もので、私はこの名は近松秋江に因んでいるのだろうと思うのだが、北町貫多が秋恵の作ったカツカレーを食べていて、秋恵から「豚みたいね」と言われて暴力を振るうのだが、これは西村の出世作で、私はこれが一番いいと思っている「どうで死ぬ身の一踊り」に出てきた逸話と同じである。芥川賞受賞後、テレビ番組にも盛んに出演し、正式にタレント事務所にも所属しているらしいが、受賞後の作品には、以前のネタの使い回しが多い。もとからその傾向はあったし、私小説作家が同じネタを使ってしまうことはままある。ただ、それは大家がやって、しょうがないなあ、と周囲を思わせるものとして存在するのであり、芥川賞という新人賞をとると、たちまちこういう大家めいた振る舞いを始めるのかと索然たる思いがしたからである。今回の作は、あたかも「どうで死ぬ身の一踊り」のダイジェスト版の趣きがあり、これまで日本近代文学を見てきた中で、これはほとんど二重売り寸前の段階に達している。作家が、女を買おうが殴ろうが、ポルノ小説を書こうが失敗作を書こうがそれはいいのだが、二重売りはしてはいけない。私はこれまで私小説の星と西村に期待してい、芥川賞受賞以後は、満を持して父親のことを書くのだろうと思っていただけに、このようなことはまったく残念だというほかなく、それに気づいてすらいないのか、平然と巻頭に載せる編集部に、私は文藝雑誌というものの、滅びの予兆さえ感じる。
山崎豊子作『運命の人』がドラマ化されて話題になっていたのを観たが、どうも釈然としないので、澤地久枝『密約 外務省機密漏洩事件』(岩波現代文庫)を読んだら、たいへん明快だった。しかしドラマが、あたかも密約のために沖縄に米軍があるかのように描いていたのは、とうてい一般の理解を得られないだろう。なお最高裁の上告棄却の際の判事に、団藤重光の名を見つけて、ちょっと面白かった。団藤は死刑廃止論で知られるので、「いい人」だと思っている人もいて、これに驚いていたりするが、私は団藤をいい人だと思ったことはない。死刑廃止などというのは西洋諸国でもやっているが、国家権力にとって、少なくとも現代先進国では、何ら危険な思想ではない。死刑廃止を支えるイデオロギーは、むしろキリスト教などであって、外交方面ではむしろ西洋諸国との関係の上からも廃止したいのが本当だろう。権力者はよく冷酷だと考えられるが、外交上メリットだと思えば、自分の家族が殺されても、犯人を死刑にはしないくらいの「冷酷」さを持つのが権力者なのである。死刑廃止論は、温かい思想ではなく、冷酷な思想なのであるということを、改めて確認した思いがした。『週刊文春』四月二五日号の宮崎哲弥の連載で、仏教徒として死刑制度には反対だが、犯罪被害者の遺族の心情に照らせば肯定せざるをえないとしている。この場合、天涯孤独の者や遺族から嫌われている者などについて、そのような遺族を仮想するという説明があればなお良かったと思う。