宮田昇は『図書館へ通う』で、1971年に田中融二の翻訳で出たノルウェーのイェンス・ビョルネボの『リリアン』(三笠書房)が猥褻文書として摘発されたが、翌年同じものが別の訳者によって同じ出版社から出たと書いている。問題のある個所を削除したものととれる書き方だが、翌年出たというのは、葛西雄三訳『一糸まとわず』である。葛西という訳者は不明だが、『リリアン』は原題が『一糸まとわず』なのである。しかし、葛西訳は『一糸まとわず2』の訳であって、同じものではない。
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『週刊読書人』に、『高畑勲の世界』の切通理作による書評が載った。『おもひでぽろぽろ』の最後で迎えに来るのは農村の子供たちではなく、幼いころのタエ子と級友たちだったそうだ。これは私が記憶違いをしたというより、私は映像認識力というのがすごく低いので、当初からそう思い込んでいたかもしれない。で、そのあとの細かい描写について書いてあるのだが、宮崎が「農家の嫁になれと叫んじゃった」と言っているのだから、私にそんな細かいことが分かるはずがない。まあそこを分析するのが批評家だろうと言うだろうが、私はそういう、細かいところを分析して、映画全体の意味が変わってくるとは思わないのである。
あと、『ナウシカ』について、公開時のロマンアルバムで、高畑が「友人としては三十点」と言ったそうで、宮崎が怒って破り捨てたと鈴木敏夫が言っているらしい。もっともその理由が分からないので、あとで図書館で『ロマンアルバム』を確認する。
高畑が紫綬褒章を受けたことを、左翼としてどうか、と書いたことについて、切通は「思想統制につながる」と書いているのだが、これはまったくの語の間違いで、思想統制というのは国家や大学がすることで、一民間人の私に思想統制などできるはずがない。
小林よしのり一派としての発言だが、私は切通に『天皇制批判の常識』を読んでくれと言い、切通は、読んだら感想を言うと言ったのだが、まだ聞いていない。小林よしのりからも、何の反応もない。高森明勅に至ってはインチキなことをチャンネル桜で言っているのが流れたままで、困ったものだ。
(小谷野敦)