四方田犬彦の『先生とわたし』は毀誉褒貶だが、私はまあ、由良哲次、君美父子の伝記として見たらいいんではないかと思う。
しかし、事実誤認を指摘されても直さないのはいつものことでこれが困る。由良は学習院大卒、慶大院から東大駒場教授になったが、東大は純血主義だから孤立していたという。四方田は、東大出身者以外で東大教授だったのは西洋古典の久保正彰くらいで、というのだが、英文科の大橋健三郎も比較文学の島田謹二も東北大出身である。まあこれを、帝大出身であるから、というのなら、上野千鶴子も小森陽一もそうなるわけでそれはそれで、私学出身の由良が、ということになるからそう書けばいいのだが、なぜか訂正しない。また由良の退官記念論文集には、駒場の英語科の同僚は高橋康也くらい、正統な英文科の教授は寄稿しなかったというのだが、駒場では島田太郎、あとのち英文科主任になる富士川義之が寄稿しているのである。
ただまあ、駒場に、由良の英語はひどい、と言っていた人はいた。N先生で、私の出版記念会に来て、ひとくさり、由良と小津次郎が英語ができないとスピーチしたから、気まずい雰囲気が流れたほどである。
これは前に書いたが、四方田が韓国へ行くと言った時に蓮實先生が「君もフランスへ行くんだと思っていた。韓国に映画があるんですか」と言って関係が悪化したのは、四方田の韓国行きが芳賀先生の肝いりだったからで、四方田は芳賀先生から、親日派として韓国では嫌われていた金素雲宛の紹介状を貰って行ったのである。
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『週刊ポスト』で井上章一さんが、ニコラス・エヴァンズの『危機言語』(京大学術出版会)の書評を書いていたのを読んで、ぎょっとした。チョムスキー系の言語学に、名詞は時制をもたないという論文があるが、あるマイナー言語では、ウミガメに時制がある、したがって普遍文法はなりたたないと書いてあるのだ。
エヴァンズはオーストラリア国立大学教授で、訳者はエヴァンズの友人で日文研にいた長田俊樹だから、井上さんは長田から寄贈されたのだろう。そこで『危機言語』を図書館で借りてみると、確かに最初のほうで、「心理言語学者」のスティーヴン・ピンカーとポール・ブルームの1990年の論文で、
http://groups.lis.illinois.edu/amag/langev/paper/pinker90naturalLanguage.html
ピンカーは啓蒙書で日本でも知られている。ブルームはこれ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Bloom_(psychologist)
で、カヤディルト語でウミガメは時制をもつとエヴァンズは言い、わずかな例から普遍性を語るのがいかに危険かと言っている。だがこれは飛躍で、単にこの論文が間違っていた(としたら)それを修正すればいいだけのことで、普遍文法は間違いである、とは全然言えない。ちなみにピンカーとブルームは認知心理学が専門で言語学者ではない。
索引でチョムスキーを拾うとエヴァンズは、子供たちは現在話されている言語を聴いて文法を演繹すると書いているのだが、普遍文法は演繹されるのではない。脳に前もって埋め込まれている装置があるはずである。エヴァンズは、チョムスキーが言語学界で流行したために、北米では言語学者がみな理論的研究をするようになり、エヴァンズのようなフィールドワークによって絶滅危惧言語の研究をする人が減ったということを憂えているのだが、だからといって普遍文法が間違っているということにはならない。
井上さんが第二の田中克彦にならないことを祈るばかりである。
(小谷野敦)