http://poorplays.seesaa.net/article/361835227.html
しつこいね。
「頼朝が義経を許す可能性がゼロ」とはなにゆえか。頼朝追悼の院宣が朝方の陰謀であったなら(というのは実は後白河の陰謀だったのを脚色したわけ)、それで頼朝義経の和解にいくというのが自然な道筋である。「新大系」にも、頼朝と義経の関係に一応の結末をつけるためと注がついている。「千本桜」の下敷きになっているのは『平家物語』であり、ここでは頼朝と義経の対立は主軸になっていない。それは『義経記』のほうである。この注は内山美樹子先生のもので、もし内山先生の解釈を「偏頗」だと言うなら、実名を名のり、堂々と学術論文を書いて対決するほかないだろう。これ以上匿名でこの類のことを言い続けるなら、人道に悖ると言うべきである。
ほか、確認して少しずつ書いているのだからちと待て。
古楽器での演奏が続いていようといまいと、私はさほど成功したとは思っていない。私が言う「成功」とは、もはやフルオーケストラでモーツァルトやベートーヴェンが演奏されることが稀になった時のことである。
徳川時代には同時代の出来事を狂言に仕組むのが禁じられた。「同時代」というのは徳川時代のこと、すなわち関ケ原以降のことである。
福地桜痴は、あんた(たち?)は知っているかもしれないが、世間的には全然知られていない。あんたらの理屈でいったら、竹田出雲なんかものすごく有名でなきゃならないのに、橋本治が初代と二代を混同しているんだからね。中公新書の小山文夫『明治の異才福地桜痴 忘れられた大記者』というのもある。
筒井康隆は歌舞伎の台本を書いたのである。「筒井歌舞伎」って題で新潮文庫にも入っている。
「劇団」について、結束が固かったといっても、私が日本俳優協会に問い合わせたら、答えられないと言ってきたのである。「劇団制」について、明快に説明した文書はないのかという問い合わせに、以下の返答が来た。
申し訳ありませんが、お問い合わせの「明快に説明した文書」は存在しません。
菊五郎劇団は、六代目菊五郎丈が亡くなった通夜のとき、有名な「物干し会議」で結成されたと伝えられていますが、その折りに列席した人はもういないと思います。
しかし、それについて書かれた記事はあると思いますので、ご自分でそうした資料にあたるほかないでしょう。
そして、それらの資料に書かれたことが本当なのかどうかは、ご自分で検証して見極めるほかないと思います。
吉右衛門劇団にしても、猿之助一座にしても、第二次世界大戦のさなかか、戦中戦後の混乱の時代の出来事です。
本協会もそのころの記録をもっていないので、ご質問に答えることができません。
もともとは功成り名とげたら段四郎だったのに逆になってしまった、ということは初代か二代猿翁が自分で言っている。『猿翁』か『猿之助随筆』あたりにあるはず。
「毛谷村六助」は略称として落語でも出てくる。
「心中天網島」が出てきて別におかしいことはない、いちゃもんである。
四の切は、猿之助が宙乗りをやるようになってから、もっぱら猿之助ばかりがやるようになって、宙乗り以外があまり見られなくなった、と言っているのであって、ほかの俳優もみな宙乗りをするようになったとは書いていない。ただしここ、私の日本語がややこなれていない。
「仲間以外の襲名披露には出なくなる」藤十郎は、扇雀時代に一緒にやっているから、仲間と言ってもいい。「出なくなる」という日本語は、当面そうなった、という意味であって、だいたい三代猿之助は今でも生きているのであって、未来は不確定であり、別に間違いではない。
六十、七十過ぎて若い女をやることがあったのかと書いたのに対し、いっぱいあったと言って、七代宗十郎と先代梅玉の例をあげているが、私は徳川ー明治時代のことを主として言っているのである。この二人が七十歳になるのはもう戦後のことである。それをもし観ているとしたら大変高齢の方であるが。
だんだん、いちゃもん度が高くなっている。
(小谷野敦)