中川右介氏は『聴かなくても語れるクラシック』(日経プレミアシリーズ)で、クラシックが難しいと言われるのは、歌詞がない、あるいは外国語だからだ、と述べているが、それはどうかな。
松田聖子の「ハートにロック」の語り手は、恋人にクラシックのコンサートに連れて行かれて、盛んに退屈だ、ロックがいい、と言っている。私はこんなバカ女とつきあうのはまっぴらごめんだが、歌詞によると、それはバッハだったらしい。しかし、ここが、ビゼーやチャイコフスキーだったら、しっくり来ないだろう。ましてやプロコフィエフのピアノ協奏曲三番など聴きながら、ロックがいいとか言っていたらそれは頭がどうかしている。
カルメン前奏曲を聴いて、好きか嫌いかは別としても、退屈、と言う人はあまりいまい。私はジャズが苦手だが、それでも『スウィングガールズ』の最後みたいに、イージーリスニングなジャズをアレンジしてうまく演出したら、そりゃあ「ジャズもいいもんですねえ」となるのは当然で、それをニューオーリャンズあたりの黒人女が、あたしゃあもうこんな世の中は嫌だよと歌うみたいなブルースを聴くから、ジャズは嫌だなあ、となるのである。歌謡曲に歌詞があると言っても、いわゆる「演歌」のどぶどろなやつは退屈だという若者も多いだろう。
要するにどのジャンルにも、小説もそうだが、より多くの人に受けるものと、ファンにしか受けない、受けにくいものがあるというだけのことである。じゃあなんでクラシックが難しいと思ってしまうのかってそりゃ評論家が悪いんで、吉田秀和先生みたいに、サン=サーンスだのチャイコフスキーが好きだと言う人を冷たい目で見下すような人のせいなのである。
あ、ロックでいえば『クロコダイル・ロック』は好きだなあ。あれは歌詞とあいまっていいんだ。
(付記)若いころ、中沢新一だったか、レッド・ツェッペリンの「Let It Bleed」が素晴らしかった思い出というのを新聞に書いていて、すぐLPを買ってきたんだが全然分からなかった。私からしたらクラシックよりよほど難しい。