ある種の人々

 私がカナダから帰ってきた翌年か、ふらりと川本先生のゼミに出たら、修士の学生が萩原朔太郎の発表をしていて、それがH君だったのだが、その後聞くところでは、修士論文準備中に精神を病んで、中間発表の時に教官から「君、大丈夫か」と言われたほどで、結局三年後にようやく修論を出したが、それからどうなったかは知らずにいた。
 すると四、五年前だったか、彼から手紙だかが来て、実家にいて高校教師をしているが、自分のうつ病体験をもとに論文を書きたいと言う。それでメールでやりとりして、うつ病だからといって、精神医学をやったわけでもない者が論文を書いてもしょうがないのではないか、それくらいなら体験に基づいた小説を書いたほうがいいのじゃないかと私は言った。そのあと、あいさつ代わりに私の新刊を送ったのだが、するとお礼メールが来たのはともかく、今後は買いますから送らなくていい、ということで、私としては、
 (いや、一度だけのつもり…)
 だったのだが、黙っていた。
 すると先日、
 (簡易書留…)
 が送られてきて、それが彼の「論文」を丁寧に製本したものであったのだが、簡易書留になどするからいっぺん郵便屋が持ち帰ってしまった。
 読んでほしい、ということと、どうやったら刊行できるか教えてほしい、ということが、丁重な手紙に書いてあったのだが、私は彼が、
 (私の本など、全然読んでいない…)
 ということに気づかざるをえず、というのは、自分が上京して酒をくみかわしてもいいとあったのは、私が酒を呑まないことを知らないわけで、その「論文」は、なんかニューアカ時代の、フロイトだのユングだのが盛んに登場するもので、私がこういうものを認めていないことを知らないわけ。稲賀さんにでも送ったほうがいいんじゃないか。
 大学院一年の時、私は西部さんの学部の授業に出ていたのだが、それに出席している女子学生と、武蔵浦和の駅で出くわしたことがあり、私が、なんであの授業に出ているのかと訊いたら、なんか、
 (哲学…)
 をやりたいそうで、これもまあ「ニューアカ」かぶれだったのであろう。その際、中沢新一事件が起きているのだから、一概に責められないが、なんか、名前が出ている人なら誰でもいい、みたいな、実は碌に著作は読んでいない、のではないかというのが感じられた。
 その後、大学院で経済学をやりたいという学生が西部さんに相談に来たのを、脇で聞いていたこともあったのだが、彼がいきなり「大塚久雄とかをやりたい」みたいなことを言いだして、西部さんも困っていたが、これも、よく知らずに相談に来たのであろう。
 大塚久雄はともかくとして、「ニューアカ」というのは、バカは死ななきゃ治らない式の厄介な病なのであろうか。

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日本比較文学会70周年で作った論文集『越境する言の葉』の巻末にある「日本文学翻訳史年表」がひどい。『瘋癲老人日記』『眠れる美女』の翻訳がごっそり抜けているが、老人文学は除くという決まりでもあったのだろうか。近代文学の英仏語訳を担当したのは水野太朗、西田桐子、佐々木悠介、みな東大比較の出身者ではないか。情けなくてよそに見せられないぞこんなの。学会の恥。