(断片)

 「ゆみ」と名乗る女からの怪しいメールが届いたのは、その頃のことである。しかしこれは、発信されてから二週間ほどたってからのことだった。というのは、そのメールは私のウェブサイト宛に送信されており、ウェブサイトは妻に頼んで作ってもらったもので、妻はメールが出せるようにしたいと言うのを、そんなことをしたら絶対いたずらメールがたくさん来るからよせと言ったのだが、結局それは、間違いを指摘するためだけに用いてくださいという但し書きつきで、設置された。
 だから直接には私には届かないで、用事のメールの場合は、妻が転送することになっていたのだが、どうもシステム上の問題で、迷惑メールホルダーに入ることが多く、これもその一つだったのである。
 その内容は、私が昔在籍していた大阪の大学の女子院生だった人のものらしく、私の同僚であったムラヴィンスキー緑川晃からセクハラを受けた、というもののようだった。ようだったというのは、ぼやかした書き方がしてあったからで、そのことも含めて、どことなく不気味だった。私が大学にいた際に、ムラヴィンスキー緑川はセクハラ事件を起こしており、そういう手癖、下半身癖が異常に悪い男だった。
 その意味で、私はムラヴィンスキー緑川を告発する文章をブログに綴ったりしていた。ムラヴィンスキーはしかし驚くほど脇が甘く、よく言えば正直者で、その頃は、自身の行動を正当化するような本を出していたが、研究としては恣意的で杜撰で水準が低く、にもかかわらず、丸川学藝賞をその前年に受賞していた。これは、やはり私の先輩で、ムラヴィンスキーからは後輩にあたる吉川玲子さんが選考委員をしていたからである。私は大阪時代に、四か月ほどの短期間ながら、吉川さんと恋愛関係にあったことがあり、しかしそれが破綻してからは、一切連絡がとれない状態になっていた。
 しかも、吉川さんが若くして著書を出した時、マスコミは盛んに持ち上げたが、ムラヴィンスキー一人が、学問的立場から厳しく批判した。それは正しかったのだが、吉川さんが大阪の私大に就職してしばらくすると、いつしかムラヴィンスキーは彼女にすり寄り、吉川さんが私と破綻した後も、親しくしていた。それが不快だったといえば、一種の嫉妬でもあろう。
 だが、その「ゆみ」と名乗る女子院生のメールは、どこか気違いじみていたし、匿名ではあるし、返事を出すかどうか、私は迷った。だが、もしかしたらムラヴィンスキーを追い込むことができるかもしれない、という邪悪な欲望が打ち勝ったのである。
 そして私は、慎重な文面の返事を出し、以後は直接メールでやりとりすることになったのだが、女子院生は、なかなかすべてを語ろうとはしなかった。一年ほど前に博士号をとったこと、ムラヴィンスキーのセクハラというのが、もう七年も前の、大学院に入ったばかりの時のことであることなどが分かった。
 「先生は、もう私が誰だか分かっているのではありませんか」
 「もう私が、ムラヴィンスキーに何をされたか、分かっているのではないですか」
 といった、思わせぶりな文面を見て、やはりどこかおかしいなあ、と思ったのだが、一度始まってしまうと、止めるわけにはいかない。
 私やムラヴィンスキーと同じ学会にいて、最近博士号をとったといえば、それでほとんど特定できるので、牧冬子という女らしい、ということは分かった。また、この思わせぶりな口ぶりでは、セックスをしてしまったということなのだろうなと思い、いくらかの不潔感を感じた。
 というのは、牧冬子は、「弁護士に相談したら、準強姦で訴えることも可能だ、と言われた」などと言ったり、「私は当初、合意の上だと友達にも言っていたのだが、そうではないことが分かった」と言ったり、かなり言うことが曖昧だったからである。
 そしてどうやら、ムラヴィンスキーと、新入生歓迎の酒席のあと、いきなり抱きつかれて、そのままぼんやりした頭で研究室へ連れて行かれ、セックスしてしまったのだということが分かった。大学院といっても文学部のではなく、語学教師の集まりである部局の上に出来たもので、彼女は大阪の私立女子大卒だった。
 それで問題は、どうしたいのかということだが、牧冬子は、助教授だから逆らえなかったので、地位を利用した強姦だと言い、しかし告訴するにしてももう時効だから、週刊誌を紹介してほしい、というようなことを言うのである。
 私は、週刊誌記事になれば、ムラヴィンスキーに打撃を与えることができる、と思った。しかし、私が積極的にそそのかすのは、まずい。そこで、週刊誌に紹介するか、警察へ行くか、どちらにしますかと言って、後は何も言わずに返事を待った。
 牧冬子は、博士号はとったけれど、非常勤講師の職もない不遇な状態であるらしく、週刊誌ネタになれば、いくら隠しても関係者には分かることで、将来にとって不利になることもある。それでも鉄槌を下したいというのであれば、ということである。果して、返事はなかなか来なかったが、五日ほどして、やはり週刊誌に紹介して下さい、というメールがあった。
 私は旧知の週刊誌の女性記者に連絡をとり、牧冬子が上京して、その出版社で記者に話をすることになったが、彼女は、不安だから私にも同席してもらいたい、と言ってきた。それで、十一月半ば、出版社で会うことになった。
 うっすらと曇った日だった。私は、仕事をしていながら一度も会社に足を踏み入れたことのない出版社もあるが、この社は、何度か行ったことがあった。飯田橋そばの地下鉄の駅を降りると、その裏手の路地を入って、ラーメン屋で昼飯をとった。私も軽く緊張していたから、そういう時はラーメンが一番である。
 指定時刻に出版社へ行くと、入口のところに、青ざめた顔つきの、割と背の高い女が立っていた。神経を病んでいるそうだから、大変ではなかったかと思ったが、美人とは言えなかった。中へ入って記者を呼び、一室で話を聞いた。
 牧冬子の話は、話しにくい内容とはいえ、まとまったものではなかった。質問に答えて断片的に語られる上、「覚えていない」といった箇所もあった。中でも、セックスをした後でデートをしたという、それが、どちらから誘ったのか覚えていないというのには、疑念を抱かされた。
 ムラヴィンスキーは、私がいたころには、同僚のシェリー・ムラヴィンスキーという日系の助教授と結婚していて、男児もいたが、私がいたころのセクハラ事件で、追及に動いたのがシェリーさんだった。私がいなくなった後で離婚したようだが、その後すぐ、ロシヤ人女性と再婚していた。
 話をまとめると、牧冬子が大学院へ入った五月に、新入生歓迎のパーティがあり、それもそろそろ散会になろうとして、大学院で知り合った友達と、建物の外へ出ようとした。するとそこへムラヴィンスキーが現れて、酔余、牧冬子に抱きついたという。しかし問題はそれからで、三人はそのまま、最寄りの石橋の駅前まで歩いたのだという。ここは、阪大坂と呼ばれる割と長い坂をたらたらと下っていくから、十五分くらいはかかる。石橋駅前は、飲み屋などが雑然と立て込んだ、どちらかといえば薄汚い場所で、私はそのそばに五年住んでいたのである。
 そこでムラヴィンスキーは、二人の女子に、二次会に行こうと言い、友達は帰りたがり、牧冬子の手を引っ張って「帰ろう」と言いさえした(しかしこれはその時話したというより、牧冬子が持参した当時のメールのプリントの中か、私が見せられたものの中に「あの時帰ろうって言って手を引っ張ったのに」というのがあったのだ)。
 だが牧冬子はそれに従わず、友達が帰ってしまった後、かといってムラヴィンスキーと飲みに行くのですらなく、二人で再び、大学への道を歩き始めたというのである。
 記者は、「その時、どういう会話があったのですか」と訊いた。
 だが、「覚えていません」と言う。恐らくは無言で、暗黙の裡に、ある合意がなされたのであろう。二人はその日、初対面である。石橋駅周辺に、ラブホテルなどはない。ならば……。
 私はメールのやりとりで牧冬子に、フェミニストとして、セクハラ問題にも詳しく、誠実なシェリーさんに相談したらどうか、と言ったが、牧冬子は、私はあの頃、緑川先生の恋人だと思われていたから、シェリーさんから嫌われているのではないか、と言った。
 そして二人は、元の研究棟に戻り、三階のムラヴィンスキーの研究室へ入り、そのソファの上でセックスをした、という。
 「その時、忘れられないのは、ムラヴィンスキーが避妊具はしっかり着けたことです…」
 私も記者も、この、駅まで行って戻ってきた、しかも友達は帰ったという話に、それがレイプなのか? という驚きと疑念を感じていたはずである。
 冬子によれば、当初は、あれは合意の上だったんだ、と友達にメールを送り、友達がそれを否定したために絶交したほどだというが、それは自分がそう思い込もうとしていたのであって、やはりレイプだった、というのである。だが、この話を聞いたら、それはやはり合意の上だったとしか思えないのである。
 では、終った後二人はどうしたのか。この話は、私と記者を仰天させた。それはおそらく夜中ころだったろうが、終わると二人は廊下へ出て、ムラヴィンスキーの部屋の向いにある、「中国・ロシア・朝鮮語」共同研究室へ入って、くつろいでいたというのである。これは、個々の教員の研究室とは別箇にある、いわば歓談室で、資料室という名になっている。私は英語科で、ほかにドイツ語科、フランス語科があって、それぞれ女性の秘書がいた。中国・ロシア・朝鮮の専任教員は、あわせて六人くらいだった。
 その室で、一時間くらい、性行為の余韻を楽しんだ(と、本人が言ったわけではない)というのだが、記者も私も、
 「そんなことをしていたら、誰かに見つかりませんか」
 と驚いて訊いた。すると、「緑川が私にひざ枕している間に、教授が一人、入ってきました」と言う。さらに驚いて、それは誰かと訊いたら、中国語の深川だという。別に二人を見咎める様子もなく、出て行ったそうである。
 「いったい、浪速大ってどういうところなんですか」
 と、記者が私に訊いたが、私は、深川と聞いて、それなら、ありうることだ…と思っていた。
 深川は、私がいたころから、中国語の主任教授で、ほかには女性の助教授がいるだけだったが、見た目がまるっきり中国人そのもので、教室に入って行った時、学生たちは、授業の介添えの中国人だと思い、先生はまだかなあと待っていたこともあったという。しかし、研究がぼちぼちなのはともかく、振る舞いを見ていても、学者でなければ頭の弱い人だと思われるのではないか、というほどに、何を考えているのか分からない人で、英語科の助教授が、あまりにバカだと口を極めて罵っていたこともあった。
 あの深川なら、女子院生に膝枕している酔ったムラヴィンスキーを見ても、内心で何を思おうと、咎めることも、「おい、何やってんだ」と言うこともなく、黙って出て行って、しかもそれを誰かに話すということもないだろう、と思われた。
 その後のことは、牧冬子は、よく覚えていない、を繰り返すのだが、いったんムラヴィンスキーと別れて、学生室のようなところで一晩過ごし、翌朝家へ帰ったという。しかし、牧冬子は両親と同居しているらしいのだ。
 出版社を二人で出たが、それから喫茶店へ行って話をする、というようなことは、危険だと私は思った。この女とは、あまり長く一緒にいるべきでないと判断して、そのまま駅で別れて、家へ帰った。