必要があって、森安理文・大森盛和編『新批評・近代日本文学の構造7 新構想 近代日本文学史(上)』国書刊行会、一九八二)というのを図書館で覗いたのだが、何とも珍妙な本であった。全八巻の、独自の日本文学講座の一冊らしいのだが、執筆陣が、編者のほかは、長谷川泉、大久保典夫、馬渡憲三郎、村松定孝、剣持武彦、高田瑞穂、笠原伸夫、助川徳是、武田勝彦で、どうも比較文学会(非東大系)が多いのだが、とびきり変なのは助川の「現行近代日本文学史批判」で、助川という人は、私は17年くらい前に会ったことがあるのだが、東大国文出身ながら、その東大国文で作った至文堂の『日本文学全史』とかを、誤植とか誤記をあげつらって批判していて、別にいいのだが、何か調子が変で、最後は、

 妄言を述べたが、幸か不幸か、某社から、近代文学史執筆の依頼を受けている。妄評の償いは、そこにおいてすることにしたい。文学史歴史学社会学民俗学其他から取り戻せというのが小稿の主旨である。どこへか。もちろん近代文学研究へ。

 と結ばれるのだが、最後の意味が分からん。「どこへか」より前なら、ノースロップ・フライが言いかつ実践したことである。その後、武田勝彦の、まったく同じ「現行近代日本文学史批判」という文章があり、こういう構成もどうかと思うのだが、明治、大正、昭和という区分はおかしいのではないかと言う。それはまあいいとして、

 万一、大正天皇今上天皇のようにご長命であったら、果して大正文学を文学史家はどう扱ったであろう。(略)これは天皇制に対する批判や反対ではない。文学までも天皇制に巻き込むことによって天皇制そのものまで歪めるおそれすらあるので、日本の伝統を存続させるためにも留意すべきことである。

 とあって、失笑させられる。どういう風に天皇制が歪められるのか、伺いたいものである。だいたい、近代天皇制なるものが、自然的天皇憲法に規定することで歪めたものではないのか。
 で、他の本の誤植か何かを批判しているこの本にも、「立原正路」なんて誤植があるから、笑える。
 実は比較文学会東京支部長に井上健先生が就任して、昔は比較文学会東京支部というのは、東大比較文学の仇敵であり、東大比較の関係者は関西支部で発表をして、東京の連絡先は比較文学会東京支部ではなく東大にせよという話だったということを、東京支部ニューズレターに書いているのだが、昔の比較文学会東京支部は、どうもこの手の(以下自粛)。