吉行淳之介のこと

 私はどうも吉行淳之介という作家のどこがいいのか分からない。関根英二という、吉行で博士論文を書いた米国在住の学者がいて、その人に会ったこともある。この人は吉行が好きで好きで、しかしアメリカへ渡ってからそれがフェミニズム的にいかんと気づいて、この論文を書いたという。そのことは上野千鶴子が『男流文学論』で言っていて、しかし蓮實先生が、吉行などという三流作家が好きで好きでたまらないなどというのはよほどのバカであると書いたのだが、私もまあ、バカとまでは思わないが、どこがそんなにいいのか訊いてみたい。
 私が吉行を知ったのは、確か中学一年の頃、『太陽』で、子供のころいじめっ子だったことを書いていたのを読んだのが最初で、だから印象は悪い。次は高校一年の時、『夕暮まで』が出て話題になったのだが、当時すでに大江健三郎なんか耽読していたのに、そのころから、話題作を読むなどというのは恥ずかしいことだと思っていたし、文庫本でないとなかなか買えなかったから、読まなかった。
 大学へ入った時、ああ吉行も読むかあと思い、角川文庫の『薔薇販売人』を読んだ。これは短篇集で、芥川賞受賞作の「驟雨」が入っていた。なんで新潮文庫でなかったかというと、角川文庫には年譜がついていたからである。しかし、別に面白くはなかった。大学時代、吉行がいちばん偉い作家だとか言っているやつはいたが、特に理由は訊かなかった。ちょうどそのころ、江藤淳が吉行を「文壇の人事担当常務」などと言って話題になっていた。『モノンクル』というのは予備校時代だが、ここでは、レズビアンを呼んで話を聞くというので吉行と岸田秀が出てきて、なんだか吉行がやたら岸田に攻撃されていた。
 大学院に入って、江藤淳の『成熟と喪失』に感動したので、そこで扱われている『星と月は天の穴』を読んだが、やっぱり面白くなかった。関根に会ったのはその頃だったろう。その本も読んだのだが、全然面白くなかった。指導教員のスミエ・ジョーンズさんにそう言ったら、英語のはあんなもんじゃない、と言うのだが、英語と日本語でそんなに違うものかなあと思った。
 それから留学から帰るまでに、『砂の上の植物群』『夕暮まで』を読んだ。やっぱり面白くなかった。ここまで面白くないとさすがに読む気を失い、吉行が死んだのを知ったのは「東海道五十一駅」に書いた。
 再度挑戦したのは今世紀に入ってからで、『暗室』これは私小説である。モデルになった愛人の大塚明子が二冊も本を書いている。しかしこれも面白くない。唯一、エッセイの『春夏秋冬女は怖い』が面白かったが、これで一番面白かったのは吉行の話ではなく、広津和郎の話だった。あと私小説の「闇の中の祝祭」がけっこう面白かった。ただし、妻と愛人(宮城まり子)の両方から花束が届く最後の場面しか覚えていない。
 吉行の小説の凄いところは、読んだあとで中身を全然覚えていないことである。最初は覚えていたのがだんだん忘れるのではなくて、読むそばから忘れるのである。まるで魔法である。それじゃ面白いはずがない。
 そして最近、『不意の出来事』が入っている新潮文庫を読んだのだが、この時は少し慎重に、なんで吉行がダメなのか、そしてなるべくいいところを見つけようとしてゆっくり読んでみた。
 何となく私小説のような感じなのだが、途中からそうではなくなっていく。そして、いくぶん川端康成風の幻想が混じってくる。しかし、吉行の小説にはエロティックなところがない。その辺は西鶴に似ている。そして、やっぱり、読み終わると何も残らない。全部読んだわけではないが、吉行の全作品をあわせても、川端の優れた短編一つほどの力もない、という気がする。三島風にいえば、どこまで行っても炭斗が回らないのである。
 昔は、もて男のもて小説だからだと思ったが、なんかそれ以上のものがある気がする。