日本国憲法で「職業選択の自由」が保証されている、というが、まさかこれを、指揮者になりたい、と思ったら国家が援助して指揮者にする、ということだと思っている人はいないだろう。これは単に、国家ないし他人が、国民に職業を強要してはいけない、ということである。皇族は国民ではないので、職業選択の自由はない。
栗原裕一郎の『<盗作>の文学史』で、猪瀬直樹と誰だかの対談で、井伏鱒二が若いころは探訪記事なんか書いていた、と言って笑っているのを引用して、そりゃ食うためには探訪記事だって書くだろうぜと怒っているところがあった。まさにそうである。しかし、井伏の場合、なかなか芽が出ず経済的に困って探訪記事を書いて、のち出世して藝術院会員になり文化勲章をとった、だからいいのだが、逆もある。若くして作家デビューしたが売れず、実用書とかポルノ小説を書いて糊口をしのぐ、という例で、芥川賞や直木賞をとった人でも、三好京三とか畑山博とか、売れなくなってきて結構苦労したものだ。だから本当は、若者に真実を教えるためには、「若いころ苦労して出世した」人ばかりじゃなく、「若いころ華やかなこともあったが、その後苦労した」人の伝記も必要だと思う。ただし、死んでしまっちゃダメである。「パトラッシュ冷たいよ」と言って死んで、その後で、実は絵が入選していました、ではいかんのだ。若いころ絵が特選になった、しかしその後は、てな話のほうが、真実に近いのである。
ところで、東浩紀は評論家をやめて小説家になった、というが、まだ評論を書いているような気がするのだが、別にそれは良くって、私の場合は、評論家をやめて小説家になる、なんて宣言はできない、ということが言いたいのである。だって食えなくなるだけだから。あの断っておきますけど、私は小説書いててたくさんあるんですよ。ただなかなか発表できないだけ。念のため言っておきますけど、「発表できない」ってのは自分がためらってるとか、柴錬みたいに「持ち込みはしない」とかじゃないですからね。