高見順の日記、昭和22年1月2日。
鎌倉文庫では、例年1月1日に社長の久米宅、2日に重役の川端康成宅で新年会をやる。
私も大分飲んだ。飲むと癇が立つ。中山義秀君が××××を連れてやってきた。この××君には昨日から腹が立っていた。昨日から――いや、ずっと前から、貸本屋をやっていた頃から嫌いだった。どうして嫌いかというと、昨日も、
「君の知り合いの和子さんという人な……」
いきなりこの調子だ。年来の友人のような、同年配のような口のきき方だ。それが癇にさわる。その傲慢不遜が私には許せないのだ。(中略)十数歳も年下の××君にむきになって怒るのは大人気ない。(略)××君は内輪の会に、もちろん呼ばれもせぬのに割り込んできて、無神経な傲慢不遜振りを発揮している。××君と知り合いになった頃は彼がちょうど芥川賞を貰ったときで、それで気負っているのだろうと思った。ところが、気負いのほかに、鈍感な無神経な傲慢さがあって、私には我慢がならなくなってきた。
「おい、国木田、障子をしめろ!」
立膝をして酒盃を口に当てながら、彼は国木田虎雄君(独歩の子)にそういっている。二十も年上の国木田君に。
「おい、国木田、銚子を持ってこいよ」
国木田君がまた、不快な表情ながら、いわれた通りにしている。(彼は、あとで、それを「我慢」だといった。しかし私には、そのとき、卑屈に見えた。)
桑原武夫君がどこかに俳句を第二藝術だと書いたそうで、そのことが話題になり、××君はその反駁文をどこかに書いたと偉そうにいった。
「おい、××君、君帰れ」
と私はいった。いうと、もうカッとなって、怒りを爆発させた。
「内輪の会に入りこんで、えらそうな口をきくな。帰れ!」
××君は、何か反駁をした。私にはもう聞えなかった。
「帰れといったら帰れ! 俺はお前という奴が嫌いなんだ。お前みたいな生意気な奴がいると、腹が立ってしょうがない。帰れ!」
××君も怒って、何かいった。(略)
「おい、帰れといわれたら帰れ!」
と大森(直道、鎌倉文庫編集者)がいった。そして、立ち上った。大森君も××君に憤慨していたのだ。この間、××君が社に来て、受附の女の子に、
「国木田いるか?」
といったのを耳にしたとかで、
「国木田ということはないだろう」
といっていたのを私は聞いていた。
−−××君は席を立った。中山君が送って行った。すると、矢庭に△△君が上着をぬいで、
「××は俺の友達だ。××に文句があるのなら……」
と私に挑んできた。
私は再びカーッとなった。この間の晩のことが蘇った。酔って何をいったか覚えがないと、あとで彼は謝ったが、酔えば、本当の気持をいうものだ。「今ひとたびの」(高見の小説)など、少しも売れもしないのに、一万部ではすくないなどといいやがって……こんなことを彼はいった。(中略)
「一万部ではすくない、無礼だといったのは俺だ。高見はその席で、一言もそんなこといいはしなかった」
と久米さんが言った。
△△との間で口論が続き、高見は自己嫌悪に陥るのだが、高見の日記を読んでいくと、久米や川端が大人に見える。そして久米も川端も、そんな高見をいたわりかわいがっている。
しかし、××とか△△とは誰か。芥川賞をとり、高見や国木田より十数歳年下というと、俳人の清水基吉(1918-2006)しかいないのである。高見は1907年生、国木田は1902年生である。清水は当時満29歳、村上龍のような最年少芥川賞作家だったのだ。△△は、やはり俳人で、名作「松風」で芥川賞候補になった石塚友二であろう。
島木健作は、敗戦直後に病死した作家だが、その昭和20年4月29日(当時は天長節)の日記にこうある。
昼すぎ、清水モトヨシといふ人が訪ねて来た。どうしてもその名は思ひ出すことができない。妻が取次に出たのだが、清水モトヨシです、といふだけで、当然知つてゐなければならぬ人のやうにいひ、そのほかの自己紹介といふことをしない。それで自分が出てみると芥川賞の今度の授賞作家だといふことがわかつた。新潮にも書いてゐるといつて、自分のけげんな面持をかへつて不審に思ふ風であつた。上つてもらつていろいろと文学の話などした。(横光の弟子だそうである=大意)
(略)芥川賞にでもなれば、世の中の人、ことに文士なら誰でも知つてゐなければならぬ筈といふ気持があるらしいのは、青年作家として、まづ、無理のないところであらう。(略)佐藤正彰君のいとことのことだ。
しかし青年(といつても三十にはなつてゐるだらうが(実際は数えでも28))作家との対談は退屈だ。たとへば彼は最大級の言葉で小林(秀雄)をほめることをする。この年頃の文学の人間が小林をほめるのは習慣みたいなものだが、二、三何か尋ねると、「結局小林さんは平凡な人情家だと思つてゐます」などといふ。昔誰かがいかにもうがつたやうな調子でいつたことのある言葉そのままなのである。それで、小林、横光などは認めてをらぬよ、と、べつに皮肉な気持でもなしにいふと、ややあわてて、自分は、作品そのものの上では横光氏のエイキヨウを受けてゐない。文学者の礼節といふものを横光氏から学んだ、などといふ。
清水は、戦後1950年ころから小説は書かなくなり、俳人として、88歳まで生きたが、若いころの人柄が彷彿とする。