くりかえしゴドーを観せられながら

 いかん。里見伝でも久米伝でも書いた、1940年の新田丸の記念航海は、3月ではなく4月だった。どこで間違えたのか。

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こんなことはもう誰かが書いているだろうが、刑務所の囚人にベケットの「ゴドーを待ちながら」を観せたら意外な感動を示したという有名な話がある。ただ、くりかえし実験されたかどうかは知らない。この話には、刑務所の囚人という教養のない連中が、「ゴドー」のような前衛演劇に感動したという意外性を示し、それほど「ゴドー」は偉大なのだ、と主張するという意味もあれば、刑務所の囚人という「解放」を待ちわびる人々にとっては、「ゴドー」はわがことのように思えたのだ、という説明も加えられたりする。
 もちろん、囚人の境遇云々という説明は適切なものだが、前衛といっても「ゴドー」は、ピンチョンが前衛であるように前衛ではない。たいへん分かりやすいともいえる。もう一つ重要なのは、囚人たちは、「ゴドー」について何の予備知識もなかっただろうということである。もし二度も三度もこの囚人たちに「ゴドー」を観せたら、彼らは退屈し不平を言うだろう。
 私たち一般の演劇観客は、いわばこの、くりかえし「ゴドー」を観せられる囚人のようなものだ。野田秀樹にせよ平田オリザにせよ、最初に観た時の新鮮な感じなんてなくなっているのに、マスコミが持ち上げるからかどうだか、繰り返し似たような世界を観続ける。歌舞伎なんか、もうその最たるもので、「寺子屋」とか「熊谷陣屋」とかを、まるで拷問みたいに、これでもかこれでもかと観せられるのである。そして、「何度も観た」などと言えば、無粋扱いされ、歌舞伎は何度観てもいいんだし役者の細かい演技とか解釈の違いに注意するんだと通から言われる。
 もう近ごろでは、初めて観る劇団であっても、何も新しいものは見出せなくなっている。もうこれは「kりかえしゴドーを観せられながら」である。