二人のフラナガン

 ダミアン・フラナガンという人の、『世界文学のスーパースター夏目漱石』という本を見つけたので、何だ何だと思って読んでみた。フラナガンは1969年生まれ、日本へ来て漱石の魅力にとりつかれ、90年代に神戸大学大学院に学び、2000年に漱石へのニーチェの影響で博士論文を書き、『日本人が知らない夏目漱石』として刊行したものだ。
 しかし、あんなに漱石論がはやった時代に、そんなに斬新な説が出せるはずもないのだが、フラナガンといえば、かつて小林信彦が『ちはやふる奥の細道』の著者とした偽西洋人の名前なので、「スーパースター」などという凄い題名(これは翻訳。ただし原書はない)のおかげで、そういうパロディ本かと思ったものだが、本当に神戸大で博士号をとっていた(こちらは当人が日本語で書いたもの)。
 「スーパースター」は、前著がいくらか話題になったところからの便乗本のようなものだが、フラナガンが本を出すまでの苦労話は、それなりに面白い。しかし、やはりどこか珍妙で、フラナガンは、漱石は西洋では読まれず、知られていないと盛んに嘆くのだが、それはそれで面白い。しかし、国文学者は、やたらちまちましたことばかり調べている、と言っているのは、どうも90年代の話としておかしく、フラナガンもごまかしきれなくなって、平岡敏夫江藤淳吉本隆明については礼賛しているのだが、小森陽一については、触れないようにしている。第一、私が『夏目漱石を江戸から読む』を95年に出しているのに、フラナガンはなんで私に会いに来なかったのだろうと思った。
 フラナガンは、1994年に名古屋で行われた学会のパーティで江藤淳を見かけたと書いている。それってもしかして、愛知淑徳大学で開かれた比較文学会ではあるまいか。それなら私もいた。
 博士論文のほうは、四分の三が、『門』に対するニーチェの影響なのだが、漱石ニーチェについては、平川上皇が早くから『ツァラトストラ』への漱石の書き込みを調査しているし、杉田弘子さんもやっていたから、どの程度オリジナルかは知らないが、別に珍しくはない。残りは絵画との関係だが、これも江藤淳佐渡谷重信、尹相仁がやっていた。だから、当人は、黙殺されたと言っているが、外国人が書いたという以上の独自性はなかったのである。
 ところでこの博士論文を刊行にこぎつけるまでの苦労が第二作に書かれているのだが、まず東京のさる出版社が、フラナガンが付け加えた絵画に関する章を、無断でさる「著名教授」に送ったところ、教授から、否定的な「首肯しかねる」といった手紙が届き、フラナガンを憤慨させている。果たしてこれは誰か。フラナガンは盛んに、漱石は地下鉄を利用してロンドンの中心部へ行ったとか、どうやってスコットランドへ行ったか当時の時刻表を調べる国文学者たちを揶揄しており、この教授もそういう細かい実証研究をする人らしい。そして、定年間近になって初めて漱石について著書を出した、と書いてある。さらに、文学と視覚藝術の関係についても冷淡だとある。
 いろいろ考えると、これは重松泰雄だろう。九大名誉教授だが、漱石についての三部作を出したのは、70歳を過ぎてからで、出版社はおうふうだから、この出版社もおうふう(旧桜楓社)。
 しかし、フラナガンもそう公正とは言えなくて、「スーパースター」の方では、懸命に小森陽一を無視しようとしていて、たとえば美禰子があっさり結婚してしまうのは、兄が妻を娶ったら自分は小姑になってしまうからだ、とまるで定説のように書いているがこれは小森の説だ(私は単純に、23だから結婚適齢期を過ぎているから、とみる)。
 あとフラナガンには小野弘美という友人がいて、子持ちだというから恋人ではないらしいが、最初の本の日本語を見てくれたという。それが「スーパースター」によると、漱石を読んだことがなく、フラナガンが『門』などを勧めても感心しなかったのが、『坊つちやん』を勧めたら大変面白がって、なんでこれを最初に読ませてくれなかったの、と言ったというのだが、25過ぎた日本人が、『坊つちやん』を読んだことないってどういうDQNだ、と思うのだが、もちろんそんな人は実際にはたくさんいるので、それが、漱石で博士論文を書く人の友人だから異様に見えるだけである。
 あとフラナガンは、漱石が西洋で知られていないことを、マフフーズに例えるのだが、「ナギブ・マフフーズを知っているだろうか。もしあなたが私と同類なら、知らない」と書いている。つまり私はフラナガンの同類ではないわけだ。ノーベル賞をとったマフフーズを知らないというのは、フラナガンがもともと理系だったかららしい。
 なおあまり助けにならなかったらしい神戸大の担当教官は林原純生。
小谷野敦