サザエさんの哀しみ

 昔は「漫画」といえば、笑いながら読むものと相場が決まっていた。漫画の中で登場人物が漫画を読んでいると、記号的に笑っていたものだ。もちろん、今では様変わりしたが、それでもまだ基本的に、漫画の主人公というのは「失敗」をして笑われるものということになっていて、『のらくろ』以来そうなのだが、アニメの主題歌には、やたらと、主人公が「失敗」をするというものが多く、戦闘ものである『ミクロイドS』でさえ、主題歌には「ずっこけ、失敗」が入っている。
 笑いに関しては、ベルクソンの有名な本があって、そこでは「こわばり」が笑いを生むとされている。しかし完全なものとはいえず、日本では梅原猛の「価値低下」とか、桂枝雀の「緊張の緩和」理論などが出ている。だが、気取って歩いている紳士がバナナの皮ですべって転ぶからおかしい、という、よく使われる理論は、こういう「失敗キャラ」の場合には、うまく機能しない。のらくろや警部マクロードは、軍隊や警察という、元来固いところにいるからまだ機能するし、忍者ハットリくんも、忍者という本来厳しい世界にいるからいい。
 だが、サザエさんは、いかなる意味でも、そういう場にいない。「いじわるばあさん」は、その点、一般的に善良で歳の甲なりの知識を持っているとか、いたわるべきだとかされている「おばあさん」が意地悪をするのだから、落差がもたらす笑いが大きいのはよく分かる。
 かつて、『サザエさん』の歌を聴くと、明日から学校だというので物悲しくなった、ということがよく言われた。私も子供時代は、そうだった。しかし、だからといって、『ミラーマン』の歌を聴いても物悲しくはならない。どうも私には、『サザエさん』の内容そのものに、悲哀を誘うものがあるように思えるのである。
 漫画の『サザエさん』には、悲哀感はない。そこでは、カツオがとても小学生とは思えない発言をしたりするし、バーに入り浸る亭主を怒る妻が登場する。アニメの『サザエさん』は、もちろんそういう、家庭向けでない話題は取り上げられない。
 私は、アニメ『サザエさん』に、やはり日曜の七時半からフジテレビでやっていた、アニメ『ムーミン』と似たものを感じるのだ。原作は、大人のシニカルな視点や笑いが入っているのに、毒抜きされて、家庭向けのほのぼのものになってしまっている。悲哀感は、子供ながらにそれを感じるところから来るのではないか。アニメの『ムーミン』って、ムーミンパパが説教ばっかりしていたものなあ。