『レベッカ』の末路

 ダフネ・デュ=モーリアの長編小説『レベッカ』は、ヒチコックによる映画で知られるが、これは製作が1940年、日本公開は1951年である。既に1939年に大久保康雄の翻訳が三笠書房から出ている。その後「鳥」の原作者でもあるデュ=モーリアの作品は多数翻訳され、1965−67年には三笠から作品集全十巻が出ている。『レベッカ』はずっと大久保訳で、1971年には新潮文庫に入って読み継がれた。
 私は大学時代に映画のほうはNHKかどこかで放送したのを観ていたが、それで筋は分かったし、原作も通俗小説らしいので読んでいなかった。2007年に、ふとこれから電車に乗るのに読む本を忘れてきたので、駅の書店で上巻を買って読んだのだが、初めのほうを読んだまま放置してあった。これは大久保訳で、このたび読んでみたら、サスペンスの上品な描写がすばらしかった。
 それで下巻も読もうとして調べたら、なんと新潮文庫が茅野美ど里訳に変わっていた。2007年に単行本で新訳を出して、08年に文庫でとって代わったのだ。しかしアマゾンのレビューでは茅野の訳は悪評ふんぷんたるものだった。それで私は大久保訳の下巻を古書で買って、図書館で茅野新訳を借りてきて見た。
 うーん。誤訳があるという指摘もあったがそれは確認できない。しかし、新訳らしさを出そうとしたムリの痕跡はある。「体育会系」とか「サイコー」とか、新しげな言葉遣いが、この作品の上品で古風な雰囲気をぶち壊しにしている。
 結局、大久保訳を変える必要はなかったのだ。大久保訳は、大久保の数多い訳業の中でも特に優れたものだった。こうして、新訳ブームは、意味のない代替わりをもたらしている、ということは、前から言っていることで、大久保訳の復活を望みたい。岩波文庫新潮文庫の『嵐ケ丘』の新訳も、アマゾンでは評判が悪いが、あえて新訳にする必要があったのか、疑問である(『嵐が丘』は、方言がふんだんに使われていて難しい)。
 そのくせ、『ティファニーで朝食を』のひどい翻訳を長く放置しておいたり、『若草物語』を古めかしい訳のままにしておいたり、判断がおかしいのである。だから、『風と共に去りぬ』も、果して変えるべきかどうか、疑問なのであるが……。