ニューギニアのもてない男

 田所聖志の「ニューギニアの『もてない男』」という論文を読んだ(椎野若菜編『「シングル」で生きる』(御茶の水書房、2010)。田所氏は1972年生まれ、東大医学部大学院特任助教である。院生時代に『もてない男』を友達と三人で回し読みし、「もてない」ということをこんなに真剣に考える人がいるのかと思った、と冒頭にある。そして、ニューギニアでの文化人類学的フィールドワークの成果が書かれているのだが、自ら独身を選びとった男のことなどが書かれていて、文化人類学ではままあることながら、果して深いところまで(つまり実はその男は不満を抱いているとか)探索しえているのかどうかは疑問だが、ほかにも論文があるようなので、読んでみたい。(なお田所氏は『もてない男』を本文で2000年に出たとし、参考文献では1999年としているが、後者が正しい)
 ところで、これは論文集だが、執筆者の所属は書いてあるのだが身分が書いていない。特任助教というのも調べて分かったので、紹介欄には「東大医学系大学院」としか書いてなくて、院生かと思ってしまう。編者の椎野だけは、東外大AA研准教授とあるのだが、ほかはまちまちで、田中雅一も「京大人文研」とあるだけで、教授とは書いていない。
 どうも近ごろこういう、どうでもいいような「身分隠し」が流行っているようで気になる。
 それと、増田裕美子佐伯順子編『日本文学の「女性性」』(思文閣出版)という新刊書も見た。これは、ひらがなで書かれる平安朝女房文学を始めとして、日本文学は女性性を持っているのではないかという、二松学舎大学での研究プロジェクトの成果で、増田さんも私の先輩で、知った人や知った名前がほとんんどである。しかしこの説は、昔柄谷行人が「双系制」とか言ったのにも劣る。だって『平家物語』とかの軍記物語や、徳川期漢文文藝はもとより、近世文藝に女性性があるかどうか疑わしくて、こういうのはやはりその昔、『源氏物語』と『雪国』だけを根拠に、日本文学は終わりが曖昧だ、とかやっていたのと同じ、ひどく時代遅れなプロジェクトである。
 で、こちらの執筆者紹介欄はまた別の意味で変で、現職はちゃんと書いてあるのだが、「大学院博士課程修了」とあるのが、その後に「学術博士」とつくのとつかないのとあって、つかない方は「博士課程単位取得満期退学」なのである。その昔、人文系で博士号をとる人がほとんどいなかった時代、「単位取得満期退学」のことを「修了」と称する習慣があったのだが、今ではそれは詐称に近い。


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いま佐藤亜紀ツイッターでやりとりしているのだが、質問に答えずに話をそらしていくので、ここで質問事項を書いておく。
・佐藤は平野啓一郎が『鏡の影』を盗作したのではなく「パクリ」としたのだというが、その違いは何か。佐藤は「パクリ」という語を使うと満足するようだが、私には分からん。また、ヴィレッジセンターから復刊された『鏡の影』は、

見えない力で絶版にされた文壇・出版界騒然の問題作を完全復刊。芥川賞受賞作との関係は?―判断するのは読者である。評論家・小谷真理による解説「盗まれた知恵の果実」と、著者によるあとがき「『鏡の影』復刊の経緯」を、特別収録。本書は平野啓一郎日蝕』が芥川賞候補に挙げられた直後、絶版にされた『鏡の影』の復刊である。

 といった煽り文句がついているが、佐藤はこれを承知していたのか。また、小谷真理の解説は実は一言も『日蝕』には触れていない。なぜか。
・世間的に、ネット上の中傷は放置するが、活字になると放置できないという慣習があるので、どこの出版社も、この平野への中傷を載せることを承諾しなかった、と私は見るが、どうか。
・佐藤は、平野が「嘘をついた」と書いているが、その根拠は示されていない。恐らくそれは『鏡の影』を読んでいない、という点についてだろうが、証拠は持っているが出していないということなのか。
・参考
http://d.hatena.ne.jp/mailinglist/20110123