寂聴伝説の謎

 桐野夏生の『ナニカアル』は林芙美子が書いた文章という設定だが、「介護」なんて言葉が出てくる。こんな言葉は1990年の介護保険法より前にはなかったものだ。(磯部成文 id:jun-jun1965小谷野先生、介護という言葉は介護用品メーカーフットマーク社の磯部社長が1983年に「介助」と「看護」の二語から創案したものです。http://www.shitamachi.net/kao/023.htm 2011) 

                                                                                                    • -

『群像』2010年6月号「寂聴まんだら対談」の第六回は河野多恵子とのものだ。河野と寂聴は無名時代からの友人で、1963年頃、吉浜に新宅を建てるため谷崎先生が滞在していたマンションに瀬戸内が住んでいて、河野が来て崇拝する谷崎の部屋を訪問したということもあった。
 さてこの対談で、河野が芥川賞をとったあと、『文藝』に初の長編を連載(恐らく「男友達」1965年)したら、ベッドシーンだらけだという批判を受けたという話が出てくる。河野が怒って、計算したらベッドシーンは20%しかない(それは十分ベッドシーンだらけだが)ので、『文藝』に反論を書かせてもらう、と瀬戸内に電話したら「おやりなさい」と言った後、「でもその前に竹西(寛子)さんにも相談したら」と言われ、竹西に電話したら「作家としての長い人生でそういうことをなさっていいのは三度まで」と言われ、反論を書くのをやめた、といい、瀬戸内に感謝している、と言っている。
 どうもこういう、作家は批評に反論しない方がいい、という話は陰湿で嫌なのだが、海音寺潮五郎の言うとおり、「あそこのしるこ屋はまずい」と言われたら黙るしかないが「砂糖の代わりにズルチンを使っている」と言われたら反論すべきであろう。
 ところで、ここでまた瀬戸内が、「私は『花芯』のことがあるから」と言うのだが、これは持ちネタ。http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20100821 しかし、その間瀬戸内は『小説新潮』には書いているのだ。すると、「反論を書かせて下さい」と言ったから『新潮』に載らなくなったのか、どうも分からない。
『花芯』は、「女子大生・曲愛玲」に続く第二作で、単にそれで止まっていただけかもしれない。『新潮』以外の文藝誌に書くようになるのは、五年後に「夏の終り」や『田村俊子』を出して以後のことである。

                                                                                                    • -

直木賞がとれず自殺した加堂秀三の、吉川英治新人賞受賞作『涸滝』は、若いころの恋愛体験に基づくものらしいが、そのあとがきに、豊島与志雄の息子の豊島徴(きよし)に勧められて刊行したとある。

                                                                                                      • -

1977年2月4日の、蓮實重彦先生の読売文学賞受賞のインタビューの(当時41歳)載った読売新聞文化面は、真ん中に秦恒平先生(42)のエッセイ、右上に倉橋由美子(42)の小さいエッセイ、左上に島田謹二(75)の自伝連載が載っていて感慨を催す。