夫婦別姓論者の中核にいるのが、家名存続を願う一人娘とその親たちであることは既に明らかだが、彼らは奇妙な幻想にとらえられている。子供の姓がもし統一され、そしてそれが婚姻届提出の時点で決められるなら、夫婦別姓法は彼らにとって何の意味もない。だから唯一の希望は、子供の姓を個々の子供の出生の時点で決められるという方向しかないわけだが、野田聖子や雅子さんのごとく、30代半ば過ぎて出産したり結婚したりすると、二人目を産む見込みが乏しくなるわけだから、再び意味がない。一人目の出産の時点で、子供の姓をどっちにするか揉めて、どうしても自分の姓にしたい女は、離婚して親権を奪い、子供を自分の姓にすることをはかるだろう。しかしそれなら、何も法改正をしなくても、シングルマザーというのになれば済むことである。もちろんそこに、非嫡出子差別というのがあるといっても、それは戸籍上の名称以上のものではない。
だが彼らが一縷の希望を託しているのは、最初の子供を自分の姓にすることを、二人目を産むことを約束した上で夫がしぶしぶ認めてくれることなのだ。だがそのためには、どうしたって二十代のうちに一人目を産まなければなるまい。ところが、それは晩婚化で難しいし、キャリア女であればやはり難しい。第一、もし三、四人子供を産むのであれば、家名を残したい女は、うち一人を親の養子にすればいいだけのことだ。
里見紝なんかも山内、上の兄は佐藤で、みな有島家で育った。夫婦別姓論に最も熱心なのは、とうとう執念で出産した野田聖子ら家名存続派である、ということは山田昌弘も『週刊東洋経済』2010年2月20日号に書いている。もっとも山田は、子供の姓をめぐってもめる件については書かずに、夫婦別姓論に賛同していて、不可解だが、どこかでフォローがあったのか?
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吉目木晴彦「寂寥郊野」を読む。実はこれで、芥川賞受賞作品を、途中挫折を含めてすべて読んだことになる。まあ途中挫折したのは、最近のものが多いのだが。しかし「寂寥郊野」は、それまでに野間新人賞、平林たい子賞ときて、37歳で芥川賞をとってから数作発表しただけで、95年以降小説を書かなくなってしまい、「寂寥郊野」は97年に新藤兼人によって映画化されたが盛り上がらず、執筆活動自体が十年近くない作家なので、面白くないのだろうと思ったのが、最後になった原因だが、これが結構面白かった。特に、米国人と結婚した64歳になる主人公が、アルツハイマー病を患い、突然日本語で話しだすというあたり、あるいは農薬の名前が醸し出すざらざらした感覚が優れている。