王様の耳はロバの耳

 子供の頃、劇団四季のこどもミュージカルで「王様の耳はロバの耳」をやっていたのをテレビで観た。もちろん原作とは違って、最後は王様と、真実を求める民衆との戦いになり、歌合戦になって王が謝る。王をやっていたのは滝田栄
 耳がロバの耳になった王は、「耳」「ロバ」という言葉を禁じる。媚びへつらう家臣が、「おふろば」というのも禁じました、などと言う。「ロバとか耳とか言うやつは、すべてまとめて牢獄へ、ぶちこめ〜ぶちこめ〜」と歌うのである。
 腹が立ったので後半は見ていなかった禁断のゲラを、ふと見たら「昔は精神分裂病といった統合失調症は」というところに「わざわざ言うことはないのでは?」というようなコメントがあって、さらに激怒を誘う。おいどこの誰だか知らないが校閲よ、お前がやっているのはこのバカな王様と同じなんだよ。言葉を消せば何かがなくなるとでも思っているのか。いずれ十年もたてば、統合失調症もどうせ「差別的な含みが出てきた」とか言って言いかえることになるんだよこのバカ。で、そのあと、「これは遺伝性が強いが」というところ「そうではないという説もあります」とある。ほうそうか、どこの誰の説だか聞かせてくれ。俺は神経症のことを言っているんじゃないぞ。統合失調症の遺伝性を否定する説なんてのは、聞いたことがないね。編集者は、お前の名前を明かせないと言っているから、ぜひ俺に連絡をして、それがどこの誰が書いた何という論文に出ているのか、ぜひ知りたいものだ。いや、ないと言っているのではない。もし本当にそんな説があるなら、耳を傾けたいと思っているのだ。教えてくれないか。お前はさんざん俺に、根拠根拠と言っておいて、自分はソースも示さずに逃げるのか。

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室井佑月が『週刊朝日』で野田聖子の妊娠について書いていて、なんかあれが感動話として受け止められていると知ってやや驚いた。俺は、まったく野田そうまでして家名を残したいのかとか言っていたわけだが、室井も、国会議員として他人の卵でってそれはどうなのか、と書いている。しかし最後に室井は、野田には養子をとってほしかったと書いているのだが、おいおい室井よ、『週刊新潮』読んでいないのか。野田は養子をとろうとしたが、高齢だからどこでも断られたって書いているではないか。校閲ってのはこういうところを修正するもんだろうぜ。この場合、担当編集者の責任だがね。

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大江健三郎の『沖縄ノート』の「屠殺人」が問題になった時に、呉智英さんが、いつからこの語はいいことになったんだ、と書いていたが、これは「から」ではない。あれは1970年で、その頃はそんなにうるさくなかったのであり、加藤周一だって盛んに「シナ」と書いていたのである。うるさくなってきたのは、80年代のことで、シナ政府が、改めて「シナそば」に文句をつけたり、トルコ風呂が改名したりと、そういうのが趣味的に、クレーマー的に横行し始めたのである。