そして新書が一冊没になった

 その新書の原稿は春ごろには完成していたが、十月刊行予定とのことでだいぶ待たされた。東大卒、20代、男の編集者Kは、『大河ドラマ入門』でひどい仕事をした奴で、その時『小説宝石』で宮崎哲弥氏と対談した際も、再校ゲラで宮崎氏の直しが反映されていないなど、この社の質の低下ぶりを窺わせるものがあったが、もう一回つきあったのである。
 時間があるからブラッシュアップしましょうなどと言って、Kは、テクスト形式のままいくつか直しを提案したが、存外マイナーな修正しかなかった。
 そして八月末になって、いよいよやるというのでゲラにして、校閲に見せるというので、私は用意しておいた「校正に関する覚書」を送った。以下のごときものである。

一、みだりに語の統一をしない。「とき」と「時」、「ころ」と「頃」などは、文脈に応じ、その周辺の漢字の量などを勘案して使い分ける。
二、差別語のむやみな規制はしない。「シナ」「看護婦」「スチュワーデス」は差別語ではない。
三、「ロシア」ではなく、原語に近い「ロシヤ」を使う。

 するとKから「最近校閲が差別語に厳しくなっていて」と言ってきたから、私は色めきたって、それは社内校閲かと尋ねた。すると、そうだという。私は電話をかけた。すると、確認すると言い、「文脈次第だから大丈夫でしょう」という返事があった。
 さて校閲が済んだから会って渡したいと言ってきた。編集者がむやみと会いたがるのは、親しい相手でもない限り何か言いにくいことがある場合なので、電話をかけて、私として受け入れがたい校閲になっているのではないか、確認したのだが、どうもKの口調に歯切れが悪い。それで、わざわざ暑い中来る必要もないから送ってくれと言った。そのうち、校閲が済んだと言って、校閲ではこういうところが問題にされていると、以下のごときメールが来た。番号を振ってみる。

1●「半身不随」という表現を言い換える
2●「信念」を持ったうえでの大量虐殺者は悪人ではない、という記述←現状の表現は危険なので少し言い換え(ヒトラーポルポトの箇所)
3●有吉佐和子の「テレフォンショッキング」事件は、「講談社文庫オリジナル版」の『恋愛論』に確実に入っているかどうか←ソフトバンク文庫版では削除されているとのことなので、事実が間違っているとマズい
4●病床の中込重明氏が、「実質的な夫婦関係ではなかった」という記述が、何をもって「実質的」とするか。もしくは、表現を和らげる?
5●中島岳志が、西部邁に対して「多分に精神的ホモセクシャルの傾向がある」という根拠は?
6●齋藤環氏が、岩月謙司氏が「有罪判決をいいことに」、「岩月著を参考文献にもあげず」という記述の根拠は?なければ、「有罪判決をいいことに」はマズい
7●『大阪ハムレット』の記述で、「西成区とか住之江区といった貧困層の住む世界」とありますが、「貧困層」と「居住地」の特定はマズいので、「大阪市西南部に住む貧困層を描く」としたほうが?
8●「お出逢い本舗」がおかしなところでやめたほうがいい、とありますが、その根拠がないと営業妨害になるのでマズい
9●大江健三郎が、武満徹と絶交した、という記述の論拠は?
 一番激怒したのは「3」である。言うまでもあるまい。2については、ロベスピエールを例に挙げているのになおこういうことを言うかと。4にしても何が問題なのか。6も、斎藤環が文句があるというならいつでも相手になる。8については何をか言わんやである。9については、大江は『武満徹全集』への文章の執筆を拒否しており、その後人から聞いた話だが、大江が違うというなら話は聞く。
 私は電話をかけた。すると、詫びのメールがすぐ来て、無視してくれて構いません、という。
 ところが、実際に届いたゲラの校閲は、さらにひどいものだった。たとえば7は、「貧困層の居住地の場所特定はよくありません!」と、この「!」が太く書いてある。『大阪ハムレット』にはきっちり地名が出てくる。しかもそういう言い方は校閲の分際を超えている。あんたがいけないと思うんなら本が出たあとで「こいつはこういうことを書いていて許せん」とブログにでも書けばいい。貧困層が住むのがどこかなんて周辺の人はみな知っている。それを俺が自粛したってこれっぽっちも現実には影響しない。
 また一頁分「この箇所全体として同性愛者に差別的とよめます」。それはお前の意見であって、校閲の言うことではないし、それならお前は名前を出して俺に言ってこなければならない。それは匿名での攻撃だ。
 「『中国辺』といってもシナのことではない」という記述に「ではどこでしょう」とコメント。馬鹿なのか、嫌がらせなのか。
 「西部邁が、佐高信中島岳志といった「左翼」のような人たちとつきあい始めた」というところに「表現OK? 稚拙な印象があります」ってお前、喧嘩売ってるのか。
 江藤淳の生年を1932としたら、古い文学辞典で「33年」に直す。馬鹿な校閲者は必ずこれをやる。鷲田清一を「阪大総長」と書いたら「阪大より大阪大のほうが表現適切?」とある。
 恐らくこれは女だろう。字がものすごく下手。頭が悪い。何か意見を言いたいなら校閲で言うんじゃない。お前がやっているのは匿名での攻撃だ。たぶん「バカなフェミニスト」である。
 変な校閲があったら、編集者はそれを消して著者に渡すものだ、ということをKは教わらなかったのか。そのために鉛筆で書いてあるのではないか。こういうのを見せられた著者の気持ちというものが分からんのか。
 私はKに、この校閲者の名前を教えろと言ったが、Kは、自分の責任でやったとか、「よくありません」は自分が書いたとか見えすいた嘘を言った。それならこの数カ月の間いつでも言えたであろうに。
 私は『大河ドラマ入門』以来のこの編集者の仕事ぶりに、これはもうかかわらないほうがいいと判断した。とてもじゃないが、もうつきあいきれない。「あなたが『よくありません!』と書いたのなら、私に喧嘩を売ったわけですね」とメールをし、本一冊没にすると通告した。電話がかかってきて、また、校閲は社外の人もやっていて、とぐだぐだ言い訳をするが、それじゃ社内じゃないじゃないかと言うと、いやそれは形式的には社内で、などと言い、誰だか分からないと言う。嘘である。「俺が松本清張だったらあんたのクビが飛んでるよ」と言って電話を切った。
 というわけで、ゲラになって一冊没にしたのは初めてである。これまで40冊以上の本を出しているが、『大河ドラマ入門』に続いてのことだから、とうてい承服できなかったのである。
 だいたい斎藤環にしたって、言い分があるなら俺はいくらでも聞くつもりだ。沈黙を決め込んでいるのは斎藤のほうである。だってこのことは前にブログにも書いたし本にも書いたんだからね。こういう、人に対話をさせないやり方は、許し難いね。

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この話とは別に、近ごろ校閲には悩まされている。もちろん、明らかな間違いを正してくれるのは結構だし、私は15年前に中公新書で、校閲の人に足を向けて寝られないと思うほど恥ずかしい間違いを直してもらって感謝したものだ。
 しかるに昨今は、インターネットのおかげで著者があまり間違えなくなり、しかもダメな校閲はネットで調べるという血で血を洗うようなことになっていて、いちいちネット画面をプリントしたものを送ってきたり、中には私が編集したウィキペディアの画面を送ってくるのもある。紙のムダである。あとは統一である。中にはご丁寧に全巻を網羅して、「ごとく」はいくつ、「如く」はいくつ、みたいに書いてくるのもいる。そんなもの、どうでもいいと思うのだが。そういう校閲に限って、重大な間違いは見落としたりするのである。
 (小谷野敦