石牟礼道子の『苦海浄土』の講談社文庫版(1972)に、渡辺京二が「石牟礼道子の世界」という長い解説を書いている。昔読んだはずだが忘れていた。石牟礼といえば、近代への呪詛と前近代の美化の傾向もあるひとで、それに対してあの渡辺京二が何を言っているか、見てみてあっと思った。
石牟礼氏は近代主義的な知性と近代産業文明を本能的に嫌悪する。しかし、それは単に嫌悪してもどうにもならないものであり、それへの反措定として「自然に還れ」みたいな単純な反近代主義を対置してみてもしようのないことである。彼女はそういうふうにとれる不用意な言葉をエッセイなどに書きつけているけれども、(略)いったい、前近代的な部落社会がそれほど牧歌的なものであるかどうか。(略)(前近代社会は)暗部を抱えた社会である。(略)彼女の描く前近代的な世界は、なぜかくも美しいのか。それは、彼女が記録作家ではなく、一個の幻想的詩人だからである。
そうして二十数年後、渡辺自身が、前近代の白痴的な美化ともいえる『逝きし世の面影』を書いてしまうわけで、この文章に既に、そちらへ傾きたがっている渡辺が見える。しかし、幻想的詩だからといって、『逝きし世の面影』の愚書ぶりが許されるわけではない。石牟礼のほうがまだしも罪はない。事実『逝きし世の面影』を歴史書として読んでいる人もいるわけだから、渡辺のほうが犯罪的だともいえる。
だから、この言葉の前半は、そのまま渡辺京二に叩きつけることにする。
(小谷野敦)