車谷長吉名誉毀損裁判の怪 

 車谷長吉が、私小説名誉毀損裁判を起こされ、遂に「私小説作家廃業宣言」をしたことはよく知られているが、実は名誉毀損裁判は報道されただけで二つあり、片方は和解している。しかもこの二つの件、調べれば調べるほど謎が深まるのである。
 発端は、2003年7月、俳句同人誌『方円』に、恩賀とみ子が書いた「和歌山発・盗作雑感」である。恩賀は1919年東京生まれで、84歳。23歳で結婚し二男二女をあげ、48歳で離婚、大野林火に師事し俳句歴五十年という。林火は83年に死去している。『方円』はしかし、横浜の中戸川朝人の雑誌で、林火の『濱』は松崎鉄之介が継承しているので、中戸川についているということになる。
 その恩賀が、『業柱抱き』(新潮社、1998、のち2001年文庫)に収録された車谷の俳句二句を、橋本多佳子、桂信子の作の盗作だと決めつけ、「泡沫作家の類か」と書いたのである。恩賀は79年に句集『それからは…』を、濱発行所から刊行している。ところがその十月、恩賀が産経新聞‐正論の募集したエッセイに入選し、産経新聞12月に掲載されている。
http://www.sankei.co.jp/seiron/koukoku/2004/0401/opi1.html
 経歴はこれで分かったのである。48歳で離婚して、以後生計はどう立ててきたのであろうか。
 さて車谷は、2004年1月号『新潮』に「刑務所の裏」を載せ、深夜叢書編集長の齋藤慎爾の過去の行いを実名で書いて名誉毀損で訴えられている。その一方、『新潮』2月号には「ぼんくら−お詫びと訂正」を書き、恩賀の指摘どおり盗作であろうとした上で、恩賀の文章を品性下劣だと書き、恩賀は東京地裁に提訴した。恩賀が、盗作と決めつけ、本を放り出したとか、三島賞直木賞受賞作家を「泡沫作家」などと書いたのだから、これくらい怒るのは当然であろう。
 さて、齋藤のほうとは、12月16日に和解が成立した。なお、齋藤の提訴は4月7日、恩賀の提訴は5月6日で、問題の雑誌の発行からほぼきっちり四ヶ月後になっている。恩賀の件については、栗原裕一郎『<盗作>の文学史』463−6に詳しいが、車谷のお詫びが出た翌月、4月号の『俳句界』で秋山巳之流が、盗作ではなく改作であるとし、『豈』の筑紫磐井が、俳句に盗作などない、みなつくりかえつくりかえしていくものだと述べている。
 2005年2月の『新潮』で車谷は「凡庸な私小説作家廃業宣言」を載せた。これは同年十月に講談社から出たエッセイ集『雲雀の巣を探した日』に入っている。ところが、「刑務所の裏」は、2月に講談社から出た『飆風』に「密告」と改題されて入っており、そこでは単に「齋藤慎爾」「深夜叢書社」が変名に変えられただけであった。
 恩賀については、その後どうなったのか、報道がないから分からない、と言いたいところだが、2005年12月に『旅と人生』という、前著78年から2005年までの句集を、深夜叢書社から出している。これは当然、反車谷で恩賀と齋藤に連絡があったと見るべきだろう。
 裁判について言えば、まず恩賀が、何ゆえ東京地裁に提訴したのか疑問で、和歌山地裁に起こすのが普通だろう。それにこちらは、恩賀が「泡沫作家」と書いているから、勝てるかどうか疑わしく、これも和解になったのではないか。
 さらに、世間では、車谷が齋藤について「ウソ」を書いたから和解した、と見ているが、ウソである、ということは齋藤に証明できないし、事実であるということも車谷には証明できまい。この場合、挙証責任は車谷にあるが、作品の封印ではなく変名にすることは、和解条項にあったのだろうから、存外事実だったのではないかという疑いが起こる。
 さらに、何ゆえ車谷が、ふた月続けて、問題になりそうな文章を載せたのか。これも勘ぐれば、ネタのなくなった車谷が、私小説作家廃業を宣言するために仕組んだとも考えられる。
 さて川崎賢子は、齋藤の裁判と、変名で出たことを『私小説研究』第7号(2006)でとりあげている(「『齋藤慎爾』『深夜叢書社』モデル名誉毀損裁判その後」)。川崎は、車谷が、私小説は侮蔑されていると主張して、「ルサンチマンの情緒によって異論を封じようとこころみる」としている。そして「『私小説』ジャンルは、社会化されざるがゆえにかえって市場における(疑似的)稀少価値ブランドとなりおおせている」と言うのだが、とてもそうは言えない。私小説は圧倒的に売れないのであり、車谷は例外的なものだ。この根本的認識に誤りがあり、川崎はおそらく反私小説派で、この事実のレポートとしては良いのだが、その裏に新潮社の営業戦略を見出したりするあたりは、少しも説得力がない。 
 川崎の新著を小谷真理が書評しているのを見つけて、そういえば小谷も、新潮社に含むところがあったっけなどと思いだした次第だが、今や私小説なんかまったく売り物にならないし、私小説が伝統として権威があるとか何とかいうのは、まったくの時代錯誤である。

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大西貢氏が亡くなっていたことに今ごろ気づいた。大西氏は愛媛大学名誉教授で、里見とんと志賀直哉について重要な論文を書いた人である。しかし著書は唯一、1982年の『近代日本文学の分水嶺』があるばかりである。その著書あとがきによれば、
1935年 愛媛県生まれ。
1957年 愛媛大学教育学部卒業、高校教師となる。
1962年 谷沢永一『大正期の文藝評論』が刊行され、大きな影響を受ける。
  ガリ版刷りの『広津和郎著作目録断片』を作成。『日本古書通信』を通じて谷沢の眼にとまり、手紙を貰い、以後谷沢との文通が続く。
1964年、愛媛県立宇和高校勤務。高校の研究紀要に「広津和郎論序説」を発表。
1967年、同紀要に安倍能成論を発表。前半部は『愛媛の先覚者』に収録。この時長女ゆかりが生まれる。
  八幡浜工業高校に勤務。愛媛大学教授・蒲池文雄の恩顧を受ける。この蒲池文雄は、シェイクスピア学者・立教大学教授・蒲池美鶴の父である。
1972年「久米正雄の社会劇の構造」『愛媛国文研究』
1973年「真山青果と三好十郎の接点」『愛媛国文研究』
1977年、「菊池寛直木三十五」を『直木賞事典』に書く。
1982年、愛媛県立松山南高校に勤務、『日本近代文学分水嶺』を上梓。
1986年、愛媛大学助教授(51歳)
1996年、「志賀直哉と里見とんの間柄」を『愛媛大学法文学部論集』に連載し始める。
2000年、恐らく愛媛大学を定年、名誉教授。
2004年6月18日、死去、69歳。