小林よしのり氏に答える(3)

 小林氏が雑誌で書いていて私の反論が『SAPIO』に載っていないというのは、ちょっとした言論封殺の嫌いはあるが、まあ良かろう(もちろんこれは小林氏が悪いのではない)
 さて、小林氏が出してきたのは「鳴物停止令」である。「普請鳴物停止令」ともいうが一般には鳴物な停止令だ。天皇が死ぬとこれが全国に布令として出される、だから庶民は天皇を知っていた、というのである。
 小林氏は秋田の佐竹藩の例をあげているが、恐らくこれは東北大学講師の中川学『近世の死と政治文化 鳴物停止と穢』(吉川弘文館、2009)を参照したのだろう。だがこれによると、鳴物停止令は将軍の死去などが主で、地域は江戸、京、また地方においては城下町が中心であり、村方にまで行きわたったとは書いていない。少なくとも天皇上皇の死に際して、近世を通じ、村方にまで鳴物停止令が徹底されたなどとはとうてい読めない。
 小林氏も歌舞伎の絵を描いているが、鳴物といって、普通の農村で七日間くらい鳴物が停止されても別に関係あるまい。関係あるのは江戸、大坂といった大都市か、さもなくば旅回りの藝人一座くらいだろう。普請にしたって、普通の農村で大工が入ってトンテンカンなんて普請をそうそうやっているはずもなく、これまた、武家屋敷か、豪商あたりにしか関係あるまい。
 それと、小林氏は私が、「庶民には一切知らせず、村役人だけにこっそり知らせたと思っているらしいが」と書いている。こっそり、というのが気になるのだが、「村」に代官所が知らせるというのは、中学や高校の教室で先生が何かを知らせるのとは違うわけで、小林氏は武士が農民らを集めて何か布告している図を描いている。しかし、いったいどうすればそんな風にして、農村の戸主全員をひとつところに集められるのだろう。こういうのは、ドラマとか歴史漫画によく描かれている。左翼側の天皇論である雁屋哲原作の『天皇と日本人』では、近世の庶民は天皇を知らなかったという証拠として、明治初めに「奥羽人民告諭」が出て天皇の存在を知らしめたとあり、続いて長崎で出た布告の絵があって、名主らしい老人が布告文を持っていてその後ろに数人の庶民が描かれている。
 しかしこれはもちろん漫画的記号である。「布告」とかいうものは、まあ五箇条の御誓文は高札として建てられたのかもしれないが、天皇崩御くらいなら、代官所から村役人を呼びにやって、来たところで、他の用件とともに伝える程度だろう、と思ったまでである。もし、代官所の役人が村の広場などに来て、「おーいみんな集まれ」とか言ったらわらわら集まってくる、とか想像している人がいたら、それは村の広さというものをどう考えているのだ、ということになる。
 だから鳴物停止などというのは、村役人が心得ていれば済むことで、一般の農民は何も知らずに生活していただろう。
 「知っていた」というのをどうとらえるかだが、たとえば高校で微分積分を習っても、仕事に関係なければたいていは忘れている。天皇崩御の際にちらりと、そういう人が西のほうにいるらしいと聞いても、忘れてしまうだろう。だから私は三権の長の例を挙げたのである。
 なお小林氏は、私が「進歩史観」を奉じているのではないかとしているが、私はいかなる「史観」も奉じてはいない。「史観」という概念自体が、歴史法則主義という非科学的なものに則った、ヘーゲル流のものであって、歴史には法則などないからである。
 くりかえしになるが、何も近世の庶民ばかりが無知だったのではなくて、現在でも庶民というのは、自分に直接かかわりがないこと、ないし藝能人の噂ばなし以外については無知なのである。小林氏はあまりそういう層と接触することがないだろうが、私は私大で教えたりしたし、アメリカの大統領の名前を知らない学生なんかいくらでもいる。

                                                                                    • -

またエンゲルベルト・ケンプフェルが『日本誌』に、日本人はみなテンショウダイジンの子孫だと信じている、と書いたという記述があるが、これはもちろん、ケンプフェルを案内した人(恐らく通詞)がそう説明したのである。ところでボダルト=ベイリーの『ケンペルと徳川綱吉』(中公新書)には、生類憐れみの令は果して日本全国に行きわたったのだろうかという疑念が書かれている。これを先の「鳴物停止令」とあわせ考えると面白いだろう。

                                                                                    • -

次に天皇号のことだが、小林氏は「院号」の時代でも宣命には「天皇」と書いてあった、と言う。なるほど私が「天皇という呼称も公的には存在せず」と書いたのはやや軽率だったが、「天皇号」というのは、諡号につく「霊元天皇」のようなものをいうのであって、藤田覚はそういう意味で言っているのであり、別に勘違いはしていないと思う。井沢元彦も昨年「逆説の日本史」で、光格天皇天皇号復活の意義を説いていたし、明治、大正期に天皇号での統一がされたのは事実だし、宣命に書いてあっても、当時「天皇」と口に出す人はいなかっただろう。「家康」と口に出す人がいなかったように。なお「天皇号」というのは諡号を合わせた呼称のことなので、小林氏が少し勘違いしている気がする。

                                                                                    • -

あと近松門左衛門が、弟の岡本一抱と作った『竜田詣』が寺子屋で使われたとかいうのは、もうどうでもいい話に属するが、岡本一抱というのは医者であり、かつて近松の弟と言われていたが、33歳も年下で、1961年の森修の論文「近松門左衛門の幼少時代について」でそれは否定されている(『近松浄瑠璃』所収)。『新潮日本人名辞典』(1991)には近松の弟とあるが、これはどうせ素人が先行の辞典をまる写ししたのだろう。
 『竜田詣』は「往来物」と言われる教科書で、確かに広く行われたが、近松、一抱作というのは、単に徳川期の随筆にそんな伝説が書いてあったというだけのことだろう。もちろんその教科書に著者名など書いていない。

                                                                                    • -

最後に小林氏は、これでも徳川時代の庶民が天皇を知らなかったと言うならそれは宗教だ、と言っている。私はてっきり、小林氏に限らず、天皇崇拝というのは「天皇教」という宗教だと思っていたから、では何なのだろう、と思ったものだ。
いや、それにしても小林氏がここまで私につきあってくれたことに感謝したい。しかし、近世の庶民が天皇を知っていようがいまいが、どうでもいいのではないか、とも思う。
 (小谷野敦
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20100105/1262646634