比較文学研究

 今日は駒場で『比較文学研究』の合評会があったので、行くつもりでいたのだが、何だか面倒くさくなって行かなかった。
 巻頭論文が千葉一幹の『虞美人草』論なのだが、これがひどいから文句を言いに行くつもりでいたのだが、まず、坪内逍遥は馬琴を否定した、勧善懲悪を否定した、しかるに『虞美人草』は勧善懲悪だから、漱石は反近代的な小説を提示したのだ、と実にバカバカしいことが書いてある。
 私は15年前に『夏目漱石を江戸から読む』で、『虞美人草』を歌舞伎のお家騒動ものと比較して論じたが、数年後に名古屋で飯田祐子さんに会ったら「あれは家庭小説でしょう」と言われ、ぎゃふんとなって、以後調べたが、最初の新聞連載小説ということで、漱石は家庭小説の枠に則って書いたばかりである。菊池幽芳、渡辺霞亭、半井桃水、須藤南翠、武田仰天子といった作家たちが常連で、だいたい女が主人公で、家庭内の騒動やら恋愛やらが重畳する通俗もの、であろうか。
 だいたい千葉さんがそんなことを知っていて書いているとはとても思えないし、カルスタ+柄谷行人の論文である。しかも、逍遥は、『八犬伝』の八犬士が、人情が描かれていないと批判はしているが、勧善懲悪だからといって批判しただろうか。なら『当世書生気質』は勧善懲悪ではないのか、『マクベス』や『リチャード三世』も勧善懲悪だから反近代的なのか、『或る女』も構造は『虞美人草』と同じだが? 
 というわけで、もう批判などというレベルではなくて、こんな論文を巻頭に置くことに、会員として抗議したいくらいだし、こんなの、日本近代文学のまともな専門家が見たら笑われてしまうぜ。これで査読雑誌だというのだから呆れる。
 だいたい、東大比較に限らず、比較文学会には、日本近代文学に手を出して、碌でもない論を立てる人が多くて困る。諸坂成利なんかもそうだが、それに比べると大東君の立派なこと。
 しかしそんなことを私がいくら言っても、ダメな奴は生涯ダメなのだ。

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何か「ジェンダー」関係のやつって、著書の予告が出てから実際に出るまでが長いように思うのは気のせいだろうか。金田淳子は予告が出てから二周年記念パーティでもやるつもりなのだろうか。佐伯さんは依頼されてから15年以上かかったと書いている。この人は間違いなく自分が不老不死だと信じている。  
 たいていの人にとって「締め切り」というのは向こうから襲ってくるものらしいが、私にとっては自分から追いかけるものになってしまっている。締め切りよ、もっとこっちへ来い。お前はあまりにも遠すぎる。

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家なき子』というのは、原題をSans famille(家がなくて)というが、この邦訳題は、子供のころから違和感を覚えていた。なんだか、家がなくて泣いている子のように思えるのである。それで考えてみたら、語構成を誤っている。
・父(てて)なし子
・宿なし犬
・手なし娘(グリム童話
 などからすれば『家なし子』が正しいのである。だいたい『家なき子』を、語構成どおりに「え」「こ」にアクセントを置いて読んでいる人はいまい。「えなき」を平板に読んでいるはずである。