断わっておくが、私は自殺というものについてまったく冷淡である。
ドストエフスキーの『悪霊』のキリーロフとか、何の意味があるのかまったく分からない。
私に向かって「死んでやるー」と叫んだって無駄である。「人に迷惑をかけない死に方をしてくれ」と言うだけである。「呪ってやる。怨霊になってやる」と言っても、そんなものはいないから無駄である。「遺書を書いてあんたに殺されたって書いてやる」と言ったって無駄である。そういうことを言うやつは死なないからである。
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(消えた)
「敦」という名前に興奮してしまう看護婦さんである。ちなみに私も「敦子」という名前には反応してしまいます。あ、でもこの人「アツシさんの義母」「義父」とか書いているのは、自分が妻になったつもりで間違えているのでは?
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西村京太郎の『華の棺』は、『女流作家』の続編で、山村美紗を描いたものだが、どうも出来が悪い。事実を適宜変えており、西村は変え方が下手なのである。『女流作家』の時も、直木賞のことを「日本文芸大賞」とかにしていたが…。もっとも『華の棺』は、山村をめぐる松本清張と高木彬光のさや当てを描いているのだが、それが誰だか分からないように書いているものだからあちこちめちゃくちゃになっていて、これは西村というより編集者が、分からないように書かせたものらしく、西村は刊行直後の対談であっさり、松本と高木、と言っている。
モデル小説は、なるべく事実そのままに描いたほうがいいのである。
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平岡正明というのは私にとっては小林信彦と似たような位置にあって、すごがる人がいるのだが何がすごいのかよく分からない。何を読めばいいの?
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『文學界』で東浩紀が、『動物化するポストモダン』の英訳に「ポストモダン」の語が入らなくて、ポストモダンという語を入れると売れなくなると言われたと慨嘆していたが、そりゃ、建築用語でしかないんだから、誤用されている語を入れるわけにいかないでしょ。
「脱構築」なんてのがまだ有用だと思っている人がいるようだが、これも無意味。論理を突き詰めて解体するのが脱構築なのだが、論理を突き詰めるのは当然のことで、当然のことに新しい名前をつけてはいけない。猫に名前をつけすぎてはいけない。