品切れになってはいるが、加賀乙彦の『フランドルの冬』を読み始めて、ほどなく頭を抱えてしまった。いちおう、後の方へ行くと、「コバヤシ」という日本人の医師が中心になるらしいのだが、始めはほとんどフランス人ばかり出てくる。フランス小説の翻訳だと言われても信じてしまいそうだ。そして江藤淳が「フォニイ」と言って嫌った理由がひたすらよく分かる。作り物じみているのである。最初の小説にしては達者だが、ではフランス人が書いたものとして読んだらいいかというと、それも分からない。医学関係の細かい用語が出てくるが、それは有吉佐和子が服や調度について細かく書くのと同じような感じしか与えない。
辻邦生も「フォニイ」だからそういうところがあるが、『背教者ユリアヌス』は、一種の通俗歴史小説として読めばよろしいが、加賀の場合はそうではない。こんなにうまいんならいっそ通俗小説を書いたらいいのではないかと思えるところがある。平野啓一郎にも、ちょっと違うのだが、そういうところがある。遠藤周作の『留学』は、加賀に比べると技術的にまずいのだが、同じようにフランスに留学した日本人を描いて、遠藤自身の痛みが伝わってくる。加賀には、それがない。しいて言えば、加賀は健康すぎる気がする。
ところで私は「時代小説」というのが嫌いで、要するに文化文政ころの、架空の武士やら町人やらを登場人物にした捕物帖やら人情ものである。『半七捕物帖』はほかのと違って凄いとよく言われるが、あれだって三冊も読む頃には飽きてくる。いわんや現代の作家が大量に書いているそれらなど、藤沢周平を含めて、生涯読む気にもならない。しかしこれがまた実にたくさん書かれ、多くの人に読まれているらしい。直木賞をとって人気作家になると、たいていシリーズものを書き始める。読むほうも書くほうもよく飽きないものだと思う。
トンデモ本が受賞することの多い和辻哲郎文化賞(和辻哲郎賞とは別)を受賞した岩下尚史のトンデモ本『芸者論』が文春文庫に入ったので、解説を見たら元本の推薦者平岩弓枝の二ページのご挨拶文だったが、芸者から古代の巫女へさかのぼるなど神職の家に生まれた私には目からウロコとか書いてあって、そんな中山太郎や折口信夫以来のお話に驚いてみせるあたり、往年の「落語名人会」で榎本滋民の解説に、ほおお、と何も知らなかったかのように驚いてみせる山本文郎アナウンサーのようで藝が行き届いてますねお宮の弓ちゃん。
筒井康隆の「最後の喫煙者」を読んだ。実は同題短編集を買っていたのだが、読んだら猛烈に不快になるのではないかと思って怖くて読めずにいたのだが、自分が「天皇の煙草」を書いたから、少し気分が楽になって読んだ。何しろ1987年のものだから、当時の筒井がどの程度現在のような状況を予測していたか分からないが、新幹線にまだ喫煙車があるというのは小説上のこととして、次の駅で飛び降りてタクシーで帰宅した、というのは、タクシーも禁煙になっているということまで予測しなかったのだろう。
某人物から『私小説のすすめ』の感想が書簡で届いたのだが、彼は自著のうちから「小説の書き方」という、6ページほどの個所をコピーして送ってきて、そこには、日本人は想像力が乏しいから自分の周囲の人をモデルにした私小説を書いたりして、恥をかいたり(恥知らずになったり)、家族から嫌われたりする、とあってそこに傍線が引いてあった。
それでこの人が理想とする文学作品は「山椒魚」で、ほかに西洋の作家としてデュマ父、ユゴー、フロベール、ロマン・ロランなどが並んでいて、なるほど、モデルがいるような作家はあまりいないが、ではゲーテはどうか、というようなことをさんざん書いたのにこういうことを言ってくるというのは困るのである。
この人は元大学教授だが、文学の人ではない。なんでその著書にこんな章があるのか謎(でもないのだが)、とはいえ、文学研究者でも、まるっきりの市民道徳に依拠して生きているような人というのはもちろん大勢いる。
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