どうでもいい話

 野口雨情の「赤い靴」は、本当はからゆきさんとして売られていったのだ、という話は聞いたことがあった。横浜の山下公園には、それとは関係なく、虚構的存在として銅像が建っている。
 ところが最近では、これにはキミちゃんというモデルになった女の子がいて、麻布十番あたりにその銅像が建っているという。
 なんでも、1978年に北海道テレビで、そのモデル少女に関するドキュメンタリーが放送されて、プロデューサーだった菊地寛という人が『赤い靴はいてた女の子』という本を書いているという。
 それによると、1973年、岡そのという60歳の女性が「北海道新聞」に、「赤い靴」の女の子は、自分が生まれる前に死んだ異父姉のきみのことだとして投書して、学藝欄に掲載されたのが発端だという。そこから調査をしたら、きみはヒュイットという宣教師の養女になったが、病弱なため東京の孤児院に入れられ、渡米せぬまま9歳で死んだという。
 どうやらそれが「定説」らしいのだが、私は全然知らなかった。
 阿井渉介というのは、『ウルトラマンタロウ』のシナリオを書いていた阿井文瓶のことで、のち作家となって、テレビの仕事に携わっている頃、きみちゃん関係の番組を制作して、この定説に疑問を抱き、調べた結果、これが菊地の「捏造」だと分かったという。
 そこで阿井が一昨年出した『捏像 はいてなかった赤い靴』を入手して、読み始めた。こういう話は私は大好きだからである。ところが、読み進めるうちに、私は憂鬱になり、苛立ちを何度も覚えることになる。
 なるほど、菊地説に、裏付けが乏しいことは分かる。だが、それを否定していく阿井の論証の仕方が、どういうわけかひどく杜撰なのである。さらにまた、菊地を非難する口調がむやみと強い割に、それほどひどい捏造だとは思えないのだが、阿井は同じことを繰り返して、菊地を非難するのだ。
 要するに、所詮は渡米していないのであるから、はかない話なのだが、阿井は、きみの戸籍には、宣教師の養女になったことは書いていない、と繰り返す。しかし、外国人の養女になって、戸籍に記したりするものだろうか。だから阿井も「非公式の養女」とちらりと書いているのだが、どのみち渡米していないのだから、したともしなかったともいえる。
 それと、きみは4歳で養女になったという話で、きみは明治35年生まれなので、ヒュイットが明治39年に養女にしたというのをとらえて、当時は数え年だからおかしい、と言う。だが、別に満だろうが数えだろうが、そんな単なる伝聞の話で、たかが一年の違いを云々しても仕方ないし、第一明治35年生まれという戸籍の記載が事実かどうかすら分からない。何しろきみは私生児だったのだから。
 さらに、明治38年にはヒュイットは日本にいなかった、というのだが、その根拠が菊地の本だったりして、しかも39年には日本へ戻っているのだから、別にムリな話とは思えない。
 また菊地説では、きみの母は、義理の父と密通してきみを生んだことになっているが、阿井は、そんな話は名誉棄損ものだと怒り狂い、ありえないと言い、父親不明とするのだが、明治期にはそんなことはいくらでもあった。昭和に入ったってある。
 阿井は途中で、「一杯のかけそば」の話をして、自分はあの話が嫌いだったが、そう言ったら、あれは実話だという説もあるといって激怒した人がいたが、その後作者が詐欺師だったことが分かって消えていった、と書くのだが、もちろん阿井が「一杯のかけそば」が嫌いでも構わないし、実際あの当時だって多くの人が批判していた。それと、栗良平が詐欺師だったという話は、別のレベルである。そういう分別(ぶんべつ)が阿井にはできないようなのだ。
 学者でないから、ということはあるまい。井沢元彦など、もっと説得力のある議論を展開するが、阿井には、事実かそうでないか、不明な点は不明とする、また道徳的価値と事実判断は別だとか、そういうことが処理できないとしか思えないのだ。
 あるいはまた、投書の主岡そのが、なぜ戦後28年もたってそんなことを言い出したのかおかしいと言うのだが、そりゃ阿井の言うのがおかしい。一介の市井の女性が、「赤い靴」のモデルは会ったこともない姉だという話を、急いで世間に公表しなければならない理由はどこにもないし、第一公表する手段がないではないか。60歳になって、ふと思い立って投書したというだけだろう。世の中にそんなことはいくらでもあって、実際には歴史的に重要なことを見聞していても、周囲の人に話すだけ、周囲の人も、へえそうかい、と聞いているだけ、老年に及んで学者が聞きつけ、それはすごい、と乗り込む、などということはいくらもある。
 あとまあいろいろあるのだが、『週刊朝日』07年12月28日号に「童謡「赤い靴」の定説に異論」という三ページの記事があって、阿井が持ち込んだらしいが、阿井の主張から、あまりおかしくないところだけ抜き出してまとめている。しかし最後の見出しは「食い違いあるが根幹は揺るがず」とあり、菊地の、そういうコメント、ついで雨情の子の野口存弥の「モデルはいない」というコメントがあり「定説は必ずしも盤石ではない」とある。
 ところが『週刊新潮』08年2月7日号には「モデル捏造と朝日が告発された童謡『赤い靴』騒動」という1ページ弱の記事があり、阿井は『週刊朝日』に持ち込んだが、定説が否定されなかったので怒り心頭、同じ朝日系のテレビだからか、と言い、こちらの記事は、菊地説の根拠は全く存在しない、と書いている。そんなことはなくて、証言があるのである。むしろ阿井のほうこそ、捏造だという結論が先にあって書いているように見える。
 阿井が気づいているかどうか知らないが、『週刊朝日』の記事を書いた中村智志は、講談社ノンフィクション賞の受賞者である。事実関係の確認に関してはヴェテランであり、阿井などよりよほど優れたノンフィクション作家であり、私は阿井著と中村の記事を読み比べて、よくこんなボロボロの本を好意的に読んだものだと思ったほどだ。

 私がバカバカしいと思うのは、第一に、学者は、テレビで唱えられる説などあまり相手にしていないのが実情なのである。「その時歴史が動いた」とかいうのは、歴史学者は「まーたいい加減なことを」とか言いながら観ているのである(観ているとしたら)。阿井も少し書いているが、この手の番組で、意見を求められた学者が、学説ではそうはならない、と言っても、いやそれでは番組になりませんから、といってお引き取り願うというのはテレビがいつでもやっていることである。
 そんな中では、どの道渡米しなかった赤い靴のモデル少女が、きみちゃんであろうがなかろうが、どうでもいいのである。  
 と言えば、しかしこの捏造伝説を信じた人々の浄財であちこちで銅像が建てられようとしている、と阿井は言うだろうし、実際ネット上に「赤い靴の会」というのがあって、それを止めようとしている。むろん、それは結構である。しかし、実際には渡米しなかった赤い靴のきみちゃんが、宣教師の養女になっていようがいまいが、明治期大ぜいいたであろう、また昭和になってもいたであろう、不幸な境遇の少女の象徴と考えればよいことである。  
 募金額は一口千円である。梅原猛山折哲雄のインチキ文化論一冊より安いのである。こういう人たちの『水底の歌』とか『愛欲の精神史』とか、そういうインチキ本が出回っていることに比べたら何ほどのことがあろうか。第一、そんなの自治体が話題作りで地所会社と結託してやっているだけに決まっているではないか。
 阿井が何の運動をしてもけっこうであるが、まじめな学者はテレビのドキュメンタリーだの新聞の恣意的な論文紹介(たまたま記者に知人がいると「新説」とかいって、実は新説ではなかったりする)を憎んでいるというのが常態であることは理解してもらいたい。