猫猫塾前期終り

 今日で前期が終りである。東大を雇い止めになって、家にこもって書いているだけでは精神衛生上良くないということ(と小遣い稼ぎ)で始めた塾で、いろいろ大変なこともあったが、妻が万事やってくれたので助かった。

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アマゾンのレビューで、私が低い点をつけるとたいていコメントをするキチガイがいる。「あ」とか名乗っているが、見ると「syama0811」というやつらしく、ヤフーの知恵袋でもキチガイぶりを発揮している。これが盛岡の野田鍼灸治療院のアドレスと一致しているのは偶然なのだろうか。

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「とっぽい」という言葉の意味を私は以前誤解していて、「素人っぽい」の略だと思っていたら、十年ほど前に「気障な、気取った」という意味だと分かった。
 ところが、いったい世間ではその意味で流通しているのかどうか、疑わしい。加藤典洋が、柳美里の『石に泳ぐ魚』を論じた文章で、「自覚の弱さ、鈍感さ、いわば『トッポさ』」と書いているのを見て、どう考えても本来の「とっぽい」ではなく、どうやら「お坊ちゃんお譲ちゃん的」という意味で使う人が多いらしいと思った。
(付記)『日本国語大辞典』では①頓智があり利を見るに敏だ、抜け目がない、ずるい(盗人・てきや仲間の隠語)②すばやい、大きい、生意気だなどの意。不良仲間の隠語③まがぬけている、にぶいなどの意でいう俗語 とある。加藤は③の意で使っているようだが、ちょっとずれているようだ。

もっともその続きを読んで私は呆れた。加藤はこう書いている。

 相手への気遣いなどというものがなくなる、そういう場所が確保されないなら、人は書くことをするべきではない、と(高井有一)氏はそう言っている。別に言うなら、気遣うこととは別種の相手との対峙、その上に立脚するものが文学なのだ。文学の悪とは、文学のもつ自己中心性の別名なのである。

 こういうことを書いておいて、「悲望」のあの愚劣な批評をするか、加藤よ。頭が悪いから自分が書いていることがあっちとこっちで整合しないのか。それとも五年の間に考えが変わったのか。

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そういえば高山文彦がジョセフィン・ベイカーの本で、荒このみ先生の本から無断で訳詞を引用して謝罪したそうだが(昨年の話)、『遊女の文化史』の冒頭に引用されているミュリッタ賛歌って、エスター=ハーディングの『女性の神秘』の翻訳からの無断引用なんだけど、短いからいいのかな。