有吉佐和子と純文学

 有吉佐和子が「不遇」だったことはよく知られている。人気作家、ベストセラー作家でありながら、純文学の世界での評価は低く、かといって瀬戸内晴美曽野綾子のように、大衆作家として居直ることもなく、常に純文学に憧れつづけた。
 最近、岩波文庫に有吉作品が入っているのは、死んで20年以上たつからだろう。数年前には論文集『有吉佐和子の世界』が出たが、私は一部しか見ていない。
 さて、私自身は、有吉の作品にしばしば挫折している。長編で読み通したのは、『華岡青洲の妻』と『和宮様御留』くらいで、前者はともかく、後者は通俗小説ではないかと思った。『出雲の阿国』は、文庫版全3冊を買ったのに、あまりに通俗なので上巻だけで挫折した。『香華』は、映画を観てから読み始めたら、まるで映画のノヴェライゼーションを読んでいるようなのですぐやめた。『恍惚の人』も、その文章が耐えられなくてすぐやめた。
 そしてこのたび、英訳もされている『紀ノ川』に挑んだのだが、もう最初のほうで頭を抱えてしまった。服装やら食器調度の名称を事細かに書き、いかにもヴァナキュラーな言い回しを用いて、文学的効果を挙げようとしているのが見え見えで、しかし肝心の筋そのものは、最初からまたしても見え見え、ひと昔前の朝の連続テレビ小説みたいなものであることが分かってしまうのである。
 むろん、当時から、有吉はそういう、純文学に見せかけようと努めるのだがそれが裏目に出るというふうで、評価が低かったのだろう。いかにも「フォニイ」なのである。
 しかし、同じフォニイでも、辻邦生などは、そこで開き直っているところがあるのだが、有吉の場合、純文学にしようという気負いが透けて見える。それが、他の「中間的な」作家の多くとの違いなのである。
 たとえば宮尾登美子が、自分の家について書いた小説を読んでも、この臭みはない。宮尾には、いい文章を書こうという意思はあっても、純文学であろうという意思がないからでもあろう。
 そしてやはり当時から言われていた通り、有吉は、巧すぎる。巧すぎて悪いことはないのだけれど、いわゆる「手が見える」、計算が見えてしまう。開高健の『日本三文オペラ』にもそういうところがあった。
 また、有吉は結局、自分自身を書くことができない。純文学作家として認められたいのであれば、私小説を書けばよいのだが、有吉は、私小説の題材として格好の、豊富な体験を持っていながら、それを書くことができなかった。佐藤愛子の「戦いすんで日が暮れて」のようなものも、書かなかった。 
 有吉の最晩年の『開幕ベルは華やかに』という、そのタイトルを聞いた瞬間に、当時大学生になる直前だった私は、あっと思った。もうここでは、タイトルからして、内容が透けて見える。演劇の世界と深いかかわりをもつ有吉が、演劇の世界の裏を描こうとしていることが明らかで、そのタイトルはあまりに、そのまんまではないかと思ったのである。