大岡昇平と丸谷才一

 毎日新聞の書評欄が、生誕百年ということもあって大岡昇平特集で、丸谷才一が、戦後最大の作家と書いているのを見て、あれ丸谷は大岡をそんなに評価していたんだっけと思った。作風はむしろ対照的だし、しかし考えてみれば丸谷『文章読本』は大岡の『野火』をテクストにしている。
 まあもう少し調べて「大岡昇平丸谷才一」を書きたいところだが、そういえば丸谷の宿敵だった江藤淳をやっつけた人だし、『裏声で歌へ君が代』が出た時は大岡と丸谷が新聞に往復書簡を載せて、「成城だより」では大岡が褒めてはいる。しかし、藝術院入りを辞退した大岡と、喜んで入った(大岡の没後十年)丸谷。筒井康隆『大いなる助走』の文庫版解説を書いて、文学賞の党派性を批判した大岡と、数多くの選考委員を務め、丸谷グループを作る丸谷。
 大岡自身が高く評価していたのは大江健三郎である。あと大岡の懐刀的存在だったのは中野孝次だが、丸谷も中野も國學院大学に勤める西洋文学者出身、同年の作家だったが、丸谷は中野のような二流作家と一緒にしてほしくないと言っていた。
 それにしても、大岡はむしろ反丸谷の柄谷、蓮實から評価されていたし、果してどの程度丸谷を評価していたかは疑問で、丸谷の「片思い」のような気がするのだよなあ。本格的に戦争に参加し損ね、徴兵忌避を問題にし続けた丸谷の、俘虜になって、それを理由に藝術院入りを辞退した大岡へのーー。
 いずれにせよ、丸谷による大岡礼賛は、江藤や中野孝次が死んだから書けるようなところがあるのは確かだろう。死ぬ者貧乏じゃのう。

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地方新聞を調べたら『里見とん伝』の書評が二つ見つかった。北海道新聞2月22日の川西政明氏と、静岡新聞2月8日の河内厚郎氏とである。河内氏のほうはまだ見ていないが、いずれにせよお礼申し上げる。さて川西氏のほうは、最後にこう書いておられる。

 著者の方法は、自身が紝の世界を創造して伝記を仕上げてゆくのではなく、志賀や小津安二郎など多くの人々の資料を収集して、紝の人生行路を定め、ともかく紝の詳細な年譜と作品年譜を作成しようというところにある。後半はその傾向が強い。紝の伝記を書くために全作品を読んだというのは当たり前の話で、読んだあと、一年くらい自分の内部で発酵させて取材を重ねやおら時は来たと伝記を書くのが普通だが、その点にやや焦りがあったのかもしれない。

『恋愛の昭和史』の書評の時もそうだったが、川西氏は評論や伝記を「文藝」としてとらえており、私は学問としてやっているから、こういう齟齬が常に起きる。「自身がとんの世界を創造」したらもう学問ではないのである。だから焦りがあったわけではないのだが、もうこれは世界観の違いだからしょうがない。

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自分の名前で検索したので、毎日新聞西部版で、『猫を償うに猫をもってせよ』に、「風の谷のナウシカ」が米国で最初に上映された時、女が主人公なのはなじまないというので題名を「風の戦士たち」と変えられた件に触れられている記事を発見した。いや別に私の著書に拠らなくたって、当時報道されたことのはずなのだが…。ところが逆に、「少女探偵ナンシー・ドリュー」は米国では70年も続く人気シリーズなのに日本ではかつてヒットしたことがない。もっとも実際には「ナウシカ」は今ではアメリカン・オタクの熱狂的な支持を受けており、原型で上映されているはずだ。
 林文代編『英米小説の読み方・楽しみ方』(岩波書店)で編者の林は、『風と共に去りぬ』が米国でも日本でも大ヒットしたのに、『アブサロム、アブサロム!』はなぜヒットしないのかと、ちと珍妙な論を展開している。それを言うなら、『アブサロム』の亜流である『百年の孤独』が妙に人気があるのはなぜか、まで考えないといけないだろう、いやむしろ比較すべきは『アブサロム』と『百年の孤独』だろう。『風と共に去りぬ』と比較すべきなのは、ハーマン・ウォークの『マージョリーモーニングスター』で、米国ではベストセラーになり、渡部昇一が、英語で読みとおして初めて面白いと思ったという作品で、日本では翻訳界の帝王・大久保康雄が『マージョリーの短き青春』として訳したが全然受けなかった。私は読んで、これは受けないだろうと思ったが、なぜか。

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 「みてハッスルきいてハッスル」が最終回を迎えた。何やら「電波少年」みたいに、ディレクター風の男が登場して番組の終わりを告げるという、子供番組(しかも発達障害児向けとされている)でいいのか、という始まりから、アヤメたちが新しい力を備えてこのディレクターの心を変え、しかしレギュラーたちはそれぞれ素に返って、漫才師になったりモデルになったりするという、現実と虚構をない交ぜにした結末で、子供たち、わけ分からなくなったのではないかと心配である。
 そういえば私も五歳の頃かもうちょっと上か、「藝名」というのを母から聞いて混乱したことがある。「モロボシ・ダン」が役名で、さらに「森次晃嗣」というのが本名だというなら分かるのだが、それすら藝名だと言われると、じゃあ三つ名前があるのか、と。