『容疑者χの献身』を読んだ

 栗原さんのところで、東野圭吾直木賞受賞作『容疑者χの献身』が論争になっていると知ったので、さっそく読んでみた(直木賞受賞作はあまり読まない)。
 文庫版で読んだのだが、「准教授」などとある。元本は2005年だから「助教授」に間違いないのだが、なんでそんな風に直すのだろう。2005年に出たものなのだから、これでは近未来小説になってしまうではないか。どうも最近この手の、安易な言い換えが多い。遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』に出てくる「トルコ風呂」は、まだ女が背中を流す程度のものだったのに、「ソープランド」に直してしまったから、まるでミツが売春していたようになってしまった、ということは前に書いたが、意味なく言い換えるのはやめてほしい。
 それと、刑事、探偵役、犯人の三人が「帝都大学」の理学部の同期生で(犯人探しものではない)、刑事と探偵が、探偵と犯人が友人同士、というのだが、探偵と犯人は世界でもトップレベルの数学の知識を共有している。となると、東大としか思えない。すると、彼らはどうやら40前後らしいが、東大卒でその年輩の刑事が、現場で働いているわけがなくて、警視庁なら課長か課長代理くらいをしているはずである。日本の小説では、大学が出てくるとリアリティが失われがちだという私の説を裏付けている。そのくせ、この犯人が教師をしている高校は、中村高校と特定できてしまうのだが、いいのだろうか。
 さて論争のほうは、二階堂黎人の文章とウィキペディアの解説を読んだだけで、まあアマゾンのレビューでも見ておくかと思って見たら、単行本と文庫あわせて400以上あったから、ああ俺の本もこれくらい売れたらなあなどと思いつつ、四つ五つ見たところでやめにした。
 何しろ佐川光晴の『生活の設計』について、作者も考えていなかった裏を読んでしまった私だが、二階堂もそれに近いことをしているようだし、全体について言うことにするが、さすがに私とて「ネタバレ」はしないので、読んでいない人には分からないように書く。まあ論争になるほどだから、誰かがもう言っているに違いないのだが。
 そもそもこれを読了した人誰しもが思うのは、途中で出てきた「ほかの男とつきあうのは許さない」手紙が、偽装のための手紙になってしまったことについて、何も説明がない、という謎であり、もう一つは、これほど頭のいい犯人が、なぜこの結末を予想できなかったのかという点である。するといきおい私も二階堂と同じく、作者はすべてを書いていない説に傾く。犯人はこの結末になることを予想していた。なぜなら、犯人の狙いは途中から、女を別の男と結婚させないことに変わっていたからである。狙いは的中したのである。じゃあなんで泣くのかって? 嬉し泣きに決まっているではないか。

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竹西寛子の新刊の広告を見て、改めて、この人は何者だろうと思った。昔は、作家だと思っていた。その後、ぼちぼち読んだり調べたりしてみると、「小説も書く古典随筆家」とも言うべき人だと分かった。ただ、いずれもそう面白くはない。数年前に、私としてはまったくのノーマークで野間文藝賞をとったので驚いた。受賞も多いが、どうしても一流の作家とは思えない。なんで竹西がこれほど大物扱いされるかといえば、やはり原爆の被害にあってそれを描いているからとしか思えないのだ。日本では、原爆を描いたり、その被害に遭ったりすると、文学者としての評価が上がることになっている。林京子などその典型だろう。

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『東京人』が「花街 色町」特集だ。岩下尚史に教えられたことで『日本売春史』にも書いたが、依然として誤解している人がいるかもしれないので書いておくと、「花街」を「はなまち」と読むのは間違いで、これは遊里を漢語で言った語で「かがい」と読み、歌舞伎の外題などでは「くるわ」「さと」などと読まれる。藝者がいるのが花街で娼婦がいるのが色町という区別は間違いね。