「方法」と「方法論」

 小説『天地人』の最初の方に、「方法論」という言葉が出てくる。もはや時代が変わり、信長のような新しい戦いの方法論を考えなければならない、という文脈である。しかし、これは「方法」だけでいいのである。あと続けて読んだら「命題」をもろに誤用していた。
 だが学者でも「方法論」を「方法」の意味で使う人は多い。「方法論」というのは、方法に関する議論のことである。「方法」だけでは、普通の言葉過ぎると思うのだろう。これと似た関係にあるのが「美」と「美学」で、「美学が感じられる」という時、実際は「美」でしかなかったりする。

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『新ゴー宣』で、天皇を本気で神だと信じていたのは、大東亜戦争時分に子供だった「小国民世代」だけだと書いてあった。これは興味深い指摘だ。同じように、明治43年までの日本人は、それほど天皇を崇拝すべき、畏怖すべき存在だとは思っていなかったのである。
 ところがここに面白い事例がある。1929年生まれの加賀乙彦は『帰らざる夏』で、陸軍幼年学校の生徒を主人公として、敗戦ののち、徹底抗戦を叫んで果たさず、自害させている。陸軍幼年学校には小木貞孝こと加賀が実際にいたから、半分自伝的なものだ。だが、いわゆる「フォニイ論争」の発端となった、1973年暮れの東京新聞での座談会で江藤淳(1932年生まれ)は、あれだけの優等生が本気で天皇を神だと思っていたはずがない、と発言している。平川祐弘先生も、玉音放送を聴いて反感を抱いたという。

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 藤本君、ダメだよメールの抜粋じゃ。全部載せないと。肝心の「時津風部屋」が出てこないじゃない。あーんなに長いメールから、そこだけ引き出す意味は何? 他の部分を公開すると都合が悪いのかな? それに、「東京大気汚染訴訟」はみごとに黙殺しているね。都合が悪いことはごまかす。
 いま藤本君はまた最初から話を蒸し返そうとしているが、平山「論文」というのは間違いで、あれは論文としては存在しないから、読んでいない。

 あと9月24日の私のメールね
藤本さま
 川端さんのところでも書きましたが、なぜ日本禁煙学会やあなた方は、そういう英語で書かれた論文を和訳し刊行して突きつけないのですか? 平山疫学の時も、生データを出さないということでペテン扱いされていましたが、さすがに私も、これだけ長い、かつ多量な英語論文を読んで検討するのは大変です。また、仮にあなたと私のやりとりを公表しても、英語の読めない人には分かりにくくなるのですから、出せばいいではないですか。

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 なんでやらないのかね。

 『禁煙ファシズムと戦う』は共著として一冊の本である。平山論文については斎藤貴男氏担当の部分で10ページにわたっていかにダメな論文であるかが述べられている。だからその議論はそちらに預けてあると考えるのが普通でしょう。

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http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20090219/1234971385
宮崎先生からお返事があった。福田恒存大岡昇平中村光夫といった人たちには共通点があって、西洋文学には詳しいけれど日本の前近代文藝に疎いというところです。私はキリスト教系の教育を受けたことがないので、キリスト教と格闘するような人たちの心理が分からないということと、ものごころついた頃には日本が経済大国になっていたので、西洋に対する屈折した心理がどうも分からないのです。それと中井久夫については、『中央公論』の今月号で批判しておりますので、ご覧ください。