私が大学一年の時に一般教養の国文学の授業をしていた延広先生が、授業中ふと、島田一男だか清水一行だか、そういう量産推理作家を愛読していると漏らしたことがある。当時私はもちろん「文学青年」だったから、文学研究者がそういう「通俗小説」を読むということを意外に思ったものだ。
 それから27年がたつのだが、どうも私には、古典文学の研究者には推理もの好きが多いような気がしている。というか、それを平然と公言するということで、もちろん英文学者で、ハードボイルドを好む人がいてもおかしくないし、平石貴樹のように自分で書く人もいるが、日本近代文学が専門となると、たとえば松本清張を研究素材として読む、という人はいても、現代の推理作家を趣味で読んでいると公言する人はあまりいない。
 しかしよくよく数えてみると、延広先生を含めて、推理もの好きらしい、と思った古典学者は三人しかいないので、三人だけでそんな結論を出すのも変だが、一人はむろん田中貴子さんである。京極夏彦なら、お化け好きの田中さんだから読むのは分かるが、島田荘司宮部みゆきも読むらしい。私の中には、やはり「通俗」という意識があって、桐野夏生など最近妙に評価が高いが、いいと思ったことがないし、文章がとても小説の文章ではない。
 ところで田中さんの白洲正子批判は、まあ白洲の経済状態がどうだったかというといくら何でもそんなに貧しかったわけはないのであれなのだが、学者の「いいとこどり」をしているという批判が、たとえば筆一本で生活をしているエッセイストなどに向けられると嫌だなと思う。在野の学者というのもいるけれど、大学に勤務している人というのは給料を貰っているわけだし、研究助成金などももらえるわけで、そういう人の研究成果を、もちろん出どころを明示しさえすればの話だが、筆一本で食っている人が「いいとこどり」するのは当然だからである。それならエッセイストなんかやめちまえというのは暴論であろう。現に全国にどれだけの数の大学教員である日本近代文学の研究者がいるかしれないが、なんでそれでインディペンデント・スカラーである私が初めての里見伝を書くことになるのであろうか。
 だから岸本葉子さんが同工異曲の本を次々と出していても、明大教授である斎藤孝の粗製濫造のように非難する気にはならないのであって、だって岸本さんの本は、病気ものはそこそことしても、他は売れないからである。まあ、肚を括って過去の恋愛体験などをもっと描いてほしい、というのはあるのだが、興味がないらしい。

                                                                                • -

小中学生に携帯電話を禁じるというのは、私は反対である。やはり防犯の役にたつし、携帯を持ったら悪いことをするという思い込みや、一律禁止というやり方が禁煙ファシズムに似ている。確かに一時期、電車内で携帯で大きな声で話す女子高生などがいたが、最近ではいなくなったし、悪いことをする子供は携帯がなくたってするんだよ。

                                                                                • -

三浦淳先生の読書日記に、『思想地図』について、右派保守の論客にも書かせるといいと思った、などとあったが、三浦先生、北田暁大の正体を知らないらしい。仲正昌樹が『諸君!』で私と八木秀次と鼎談をして上野千鶴子批判が出たというだけで予定されていた公開対談をなしにし、上野が原稿を書かないと北田が出張してお話を伺い、上野が勘違いしていてもご無理ごもっともと聞いている千鶴子のポチだというのに。