読まなくていい本

 何かを「論じる」本というのがある。そういう本で、最初の五分の一くらいを読むと、もうほとんどその本の言いたいことは分かってしまって、あとは読む必要はない、というものがある。
 たとえば『オルレアンのうわさ』などというのもその一つで、私は、買って途中まで読みかけて、これなら買う必要はなかったなと思った。あるいはハンチントンの『文明の衝突』などは、元は論文だったものを書き足し、水増しして本にしたものな上、その論旨はあちこちで紹介されているから、もはや読む必要を感じない。フランシス・フクヤマの『歴史の終り』もそんな感じだが、これは間違えて全部読んでしまった。ただ、初学者、たとえば学生などは、これらの本を一冊丸ごと読んでも、知らないことがたくさん書いてある可能性もあるから、こうした本に対する読み方は、読者の段数によって変わるといえよう。
 以下は日本の学者の本になるが、決して悪口のつもりはない。笠谷和比古の『主君<押込>の構造』なども、著者自身が言っているように、前からある程度知られていたことを書いたもので、まあ半分も読めばそれ以上読む必要はない。黒田日出男の『謎解き伴大納言絵巻』なども、論文で論旨は尽きていて、一冊買う必要はない。
 逆に、歴史を叙述したものは、基本的にそういうことはない。その場合、玄人的にいえば、どの程度中味が新しいかが問題で、私は今さら、織田信長を描いた小説など読む気にはならない。さて、そろそろ話題になり始めた寺尾紗穂さんの『評伝川島芳子』だが、修士論文を本にしたものとしては、もしかすると最年少記録になるかもしれない。佐伯さんが『遊女の文化史』を出したのは26歳8ヶ月で、寺尾さんは26歳4ヶ月だ。実は私の当時、小堀先生が、「評伝は論文ではない」と言っていたのだが、私は異論があって、伝記的事実をしっかり押さえ、十分に新味があれば、いいと思う。ただ川島芳子の伝記は既に数多い。
川島芳子 渡辺竜策 番町書房, 1972 「川島芳子その生涯」(徳間文庫)
妖花川島芳子伝 楳本捨三 秀英書房, 1980
男装の麗人川島芳子上坂冬子 文芸春秋, 1984 (文春文庫)
川島芳子 大坪かず子 郷土出版社, 1989
孤独の王女・川島芳子 園本琴音 智書房, 2004
 これだけある。特に上坂のものと渡辺のものは広く流布している。願わくは、修士論文で評伝を書くなら、「初もの」がいいのだが・・・。
小谷野敦

http://d.hatena.ne.jp/rento/20080124
 久しぶりに大橋先生のブログを覗いてみた。なんかよく通俗映画を観たり通俗小説を読む人だなあ。

原敬(1856-1921)は、「平民宰相による最初の政党内閣」を組織し、1921年東京駅で刺殺された。読み方は「はら・たかし」だが、「はらけい」という略称(なのかな?)もよく知られていて、敬を「たかし」と読むのはむつかしいので、私も含め「はらけい」で憶えている人は多いし

 「敬」を「たかし」と読むのは全然難しくないと思います。それに、「平民宰相」といっても、南部藩では家老級の家柄で、伊藤博文とかの元勲よりもともとの身分は高かったというのは今では常識。
http://d.hatena.ne.jp/rento/20080125
 別に「リア王」が傑作だとは思わないが、これは単純に言って、フランセス・イェイツの『シェイクスピア後期の劇』への反論ね。邦訳題は『シェイクスピア最後の夢』。ただしイェイツも大橋先生も、何ら実証的な証拠を出さずに感想を述べているだけ。若い学生はまねしちゃいけませんよ。シェイクスピアの日記とか手紙があるわけじゃないのだからね。