初心者のための相撲入門

 時津風騒動で、時津海が引退して時津風を継いだが、北の湖理事長が「時津海」と口を滑らせたのは、そのせいだったんだな。
 ところで、なんで名門と言われる時津風部屋を、三十三歳の力士が継ぐんだ、とか疑問に思っている人も多いようなので、一から説明する。実は某社から「相撲入門」執筆のお誘いを受けたのだが、相撲なんて、テレビでちらちら観ているうちに興味を持てばおいおい分かってくるものだし、本を買って入門(自分が力士になるんじゃなくて)する人もいないだろうから売れないだろうと言って断った。
 ここで「相撲」と言っているのは「大相撲」と俗称される、日本相撲協会が取り仕切るプロ相撲のことで、ほかにはアマチュア相撲(実業団)、大学相撲がある。その辺は野球と同じだ。プロ相撲の特徴は、まず「部屋」に入門しなければならないということで、昔はだいたい中学を出て入門していたから、力士も行司も、十五歳での入門が多かった。今では大学相撲から入門するのも多いから、それはだいたい二十二くらいということになるが、相撲での大学入学は、試験などないに等しい。もちろんほとんど私大である。唯一、国立大卒の力士がいる。高砂部屋の一ノ矢で、琉球大卒。いま46歳、私より年上で、角界最年長、序二段あたりでとっている。(追記:2007年初場所から、名大工学部卒の舛名大が番付に載っている。秋場所では序二段82枚目で一つ勝ち越し{4勝3敗})
 だいたい我々がテレビで観ているのは、十両から上、つまり幕内の相撲だが、相撲の序列は、下から序ノ口、序二段、三段目、幕下、十両、幕内となる。そして十両以上の力士が「関取」と呼ばれ、「白鵬関」などと「関」が敬称になる。時々、相撲に詳しくない人が、幕下力士に「関」をつけたりするが、それは間違い。NHKで、幕下以下の力士の優勝インタビューを見ていれば、「若麒麟さん」などと呼ばれているのが分かる。たとえ、元は関取でも、今は幕下以下なら「さん」だ。序ノ口の相撲は朝から始まり、延々と続いて、午後6時ころに打ち上げになる。だから「相撲は何時から始まる」と訊かれても、普通に相撲と言われているのは3時頃から、ということになる。
 そして驚くなかれ、幕下以下は、給料が出ない。中には、30過ぎて幕下とか、一度は十両や幕内に上がったのだが転落してきた力士もいる。ただし、給料のほかに「持ち給金」というのがある。持ち給金というのは、勝ち越し、優勝、金星などで加算されていく給料で、これは角界に長くいればいるほど高くなる。金星というのは、平幕力士が横綱に勝った時の勝ち星のことで、角界の隠語では美人をも意味する。だから、大関はもちろん、関脇や小結が横綱に買っても、金星ではない。
 力士の地位は番付に載るわけだが、番付は毎場所変わる。現在は年六場所、一場所十五日だが、徳川ー明治時代には年二場所、一場所十日だったため、力士は年間二十日働けばよく、「一年を二十日で暮らすいい男」と言われたのはそのためだ。奇数月の日曜から十五日間開かれ、八日目の日曜が中日、最後の日が千秋楽である。正式名称は、一月場所、三月場所などだが、一般には、初場所春場所(大阪場所)、夏場所名古屋場所秋場所九州場所と呼ばれる。初、夏、秋が、両国国技館で開かれ、あとは地方で行われる。私が学生の頃、前の蔵前国技館から両国国技館への移転に伴い、秋場所千秋楽に、蔵前国技館サヨナラのセレモニーがあり、来年から両国国技館で、と言われていたので、うかつな男が「九州場所はどこでやるんですか」などと訊いていたが、福岡でやるんだよ。
 さて番付は毎場所変わるが、横綱というのは、一度なったら下がることはない。もし横綱が毎場所負け越していたら、引退するほかない。大関は、二場所連続負け越しで関脇に陥落する。関脇、小結は負け越せば下に落ちる。「三役」というのは、本来、大関、関脇、小結のことで、横綱というのは本来、強い大関に与えられた称号であって、地位ではなかった。ただし、いま一般に「三役」といえば、関脇、小結のことである。小結の下が前頭筆頭で、以下二枚目、三枚目と二人ずつ東西にいて、幕内は十六枚くらいだが、これには増減がある。しかし番付を見ると分かるが、実は十両力士も、正式には前頭である。十両は正式には十枚目というので、古い親方などはそう言う。関取、つまり十両以上になれば、同世代のサラリーマンよりはずっと高額の収入が得られる。そうでなけりゃ、あんな苛酷な稽古に誰が耐えるものか。
 さて部屋である。幕下以下の力士は「力士養成員」として、協会から部屋に預けられている形になっている。これは要するに、前近代的体制と近代的相撲協会体制の妥協の産物である。親方には、部屋持ち親方と部屋つき親方とがいて、何らかの「年寄」を名乗らなければならず、「名跡」を入手しなければならない。これが、105ある。もちろん、明治の昔には名跡の扱いもバラバラだったが、今では、北の湖貴乃花一代年寄以外は、みなこの105の中から入手する。年寄株はたいてい一杯で、誰かが名乗っているか、誰かが所持していて、自身の引退に備えているかだ。中には、他人の株を借りて名乗っている親方もあり、借りている株を、別の誰かが名乗ると、またどこかから借りて、どんどん名前が変わる。かつて若獅子が二十近くの借株を渡り歩いたあげく廃業した。ここで問題なのは、引退時に親方にならないと、二度と相撲界へは戻れないという決まりで、野球のように、引退して解説者などをしてからコーチや監督になるということは、ない。その代わり、近年では、引退後一年間は、力士名のまま「準年寄」でいられる制度ができている。横綱なら五年間で、武蔵丸が今武蔵丸親方だが、来年末あたりまでに、105の中から何かを名乗らなければ、角界を去らなければならない。大関は三年間で、栃東が今栃東親方、準年寄だが、これは父親の玉ノ井親方が65の定年を再来年迎えるから、それを名乗ることになっている。親方になるのは、たいてい幕内力士だが、今では幕内通算12場所、あるいは幕内・十両通算20場所務めていないとなれない。以前は幕内を一場所でも務めていれば、なれた。ただ、幕内へ上がるほどの力士は、だいたい関取20場所くらいは務めている。ここで問題なのは、引退時に年寄株のない力士が退職しなければならないことで、以前はそういう場合、引退ではなく廃業と言っていた。まあ実質は変わらない。さらに問題は、横綱大関が、株がなくて廃業ということはまずないが、実力のあった力士が協会に残るとは限らないことで、親方に可愛がられているとか、親方の女婿だとか、事務能力があるとか、人柄がいいとかいうことで、力士としての実力とは別個に、大したことのない力士が親方になることがある(何だか大学と似てますね)。そうなると、宮城野親方のように、元十両なのに、先々代宮城野の女婿だというので部屋持ち親方になる悪例ができる。
 また相撲協会内の役職があり、理事長、理事、監事、委員、主任、年寄となっている。引退して協会に残った時点では、ほとんどは年寄で、年齢にもよるが、五、六年もすれば委員になる。ただ、横綱大関は、年寄でも、委員待遇ということになる。時津風親方になった時津海は、最高位前頭三枚目で、当然、平の年寄である。なお、相撲界では番付が毎場所変わるから、「最高位」をもって、「元小結」「元前頭三枚目」のように言う。部屋持ち親方になる資格というのは別にないから、名門部屋の親方が(宮城野部屋も名門である)、元十両だったり、まだ33歳の元前頭三枚目だったりということは起こる。
 もう一つ、「独立」という問題がある。協会の定年は65なので、もし横綱大関が引退して部屋つき親方になっても、その部屋の親方の定年まで15年や20年あると、独立して部屋を興すことが多い。横綱大関でなくても、それはある。そして、元の部屋の親方が引退した際、その実力者が戻ってきて部屋を継ぐとなると一番いいのだが、これがなかなかうまくいかない。なぜなら、部屋には土地と建物があり、定年になった親方の部屋の土地と建物は、その親方の財産だからだ。だから、女婿になると都合がいい。ところが、女婿になって部屋を継いだが、その後離婚して裁判になったケースもある。やはり名門の立浪部屋がそれだ。あるいは名門・二所ノ関部屋などは、関脇・金剛が、優勝してすぐ引退、親方の女婿となって部屋を継いだが、のち離婚している。二代目若乃花も、初代若乃花の娘と結婚させられたが、ほかに恋人がいて、結局離婚した。あるいは一つの部屋から横綱が二人出たり、実力力士が複数出たりすると、やはり紛擾の素で、たとえば井筒部屋など、井筒三兄弟と言われた親方の息子たちの内、長男は十両どまり、次男で元関脇の逆鉾が継ぎ、三男・寺尾は独立したが、井筒部屋には大関・霧島がおり、番付からいえば霧島が継ぐべきだったろうという声もある。あるいは二子山部屋のように、兄から弟へ受け渡されたが、その息子たちの三代目若乃花貴乃花横綱兄弟は、一時期激しくせめぎ合っていた。出羽海部屋も名門だが、横綱三重ノ海が独立して武蔵川部屋を興したため、今は元関脇・鷲羽山が継いでいる。鷲羽山は人格者なので、これはいい。あるいは名門・高砂部屋は、元横綱朝潮(先代)の後、部屋にいた元小結の富士錦が継ぎ、後を、やはり部屋にいた元関脇・水戸泉に継がせようとしたが、部屋出身の元大関朝潮が若松部屋を継いでいたので、水戸泉が辞退し、戻って高砂となった。立浪部屋なども、人格者とされる大島親方がここの出身なのだから、戻って継げば、裁判騒動になどならずに済んだのだ。なお大島親方は、元大関旭国で、横綱旭富士(現安治川親方)を育てたが、まだ若い頃、背が低くてあまり期待されておらず、期待されていた黒姫山にさんざんいじめられたという。しかし黒姫山は関脇どまり、引退して武隈部屋を興したが、元幕下力士羽黒洋だった実子が詐欺事件で逮捕されたこともあり、力士がいなくなって部屋が潰れ、親方は立浪一門だが立浪系ではない友綱部屋の部屋つきになった。力士時代の人格が悪いと、あとあと響くといういい例が九重親方千代の富士で、31回優勝した大横綱でありながら、現役時代に八百長をやりまくるなど、人柄が悪かったので、理事はおろか監事にすらなれない。逆に、二回しか優勝できなかった横綱大乃国芝田山親方は、人望が厚く、いずれ理事になるだろう。
 この、独立した実力者ないしは人格者力士が戻るのが難しいというのが、今回の時津風騒動の原因の一つでもある。先代時津風は、東京農大出身の元大関豊山で、理事長も務めた有能な人物だったが、残念ながら、部屋から横綱大関が出なかった。ただし、先代の四股名を継いだ豊山が、時津海と同じく、東京農大卒、残念ながら最高位小結に終ったが、人格は優れ、現在協会の監事である。つまり先代時津風のあとをこの人が継げばよかったのだが、既に湊部屋を作って独立していた。
 角界には、部屋のほかに「一門」というのがあり、二所ノ関、出羽海、時津風高砂のほかに、以前は別の一門だったのが、連合した、立浪・伊勢ヶ浜・宮城野連合がある。だがこれも、伊勢ヶ浜部屋に後継者がなく消滅したため、立浪・宮城野連合だが、このうち二所ノ関は、この部屋出身の大ノ海花籠部屋横綱大関を多く輩出したため(初代若乃花など)、今では花籠一門といってもいいほどの勢力がある。時津風一門は、五つの一門の中で、柏戸以来、横綱を出しておらず、かろうじて大関・霧島がいるだけで、そういう意味でも衰退しつつあり、それが、双津竜のような、人格において劣る者が部屋を継いでしまった下地でもあったと思う。湊親方でもいいが、一門なのだから、霧島を親方に迎えても良かったくらいだ。そういう自浄作用がない。