翻訳もあまり厳格には

 井上健先生の『翻訳街裏通り』を読んだら、面白かった。「わが青春のB級翻訳」と副題がついている。名前を隠して、ダメな翻訳の例が出てきたり、東大の先生のゴシップが綴られていて、井上さんもなかなか意地悪だなあと思わせる。前に聞いていたが、呉智英さんと知り合いであることも明らかにされていて、呉さんと親しい東大教授なんてこの人くらいではないかと思った。
 この本の味噌は、名前を隠しているふりをして、調べれば分かってしまうというところにある。ダメな翻訳も、おかしな教師も、就職で面接に行った先も。最後については「わけあってどうしても名前をいうわけにはいかないが、受信料というものを徴収しに来る・・・」という具合だ。
 しかし、教師に関して言うと、井上先生と私は、東大英文科から比較文学へ行っているので、両方とも私には、本人を知っていることが多いが、前に書いたとおり、こういう経歴を持つ者は全世界に四人しかおらず、一人はだいぶ昔の人なので、私と同程度にこの本の教師ゴシップを楽しめるのは、田中雅史くらいしかいないことになる。
 ところで翻訳のほうだが、明らかに、こりゃあひどい、意味不明だという例もあるが、いや、この程度に不自然なのは、しょうがないんじゃないか、という例も少なくない。ただ恐らくは、ひどい翻訳の例はもっとご存知なのだが、訳者に関してさしさわりがあって書けなかったという事情もあろう。
 「翻訳者は裏切り者」というのは「traduttore e traditore」という言葉遊びなので,それを「裏切り者」ふうに訳してしまうと、嘘つきのクレタ島人みたいになってしまう。大学一年の頃、この言葉を持ち出して、だから演劇は苦手だと言っていたのがいたが、単に演劇が嫌いなだけだったのだろうと思う。(劇作家の意図を演出家が裏切るという意味らしい)
 翻訳はどうせ翻訳、のような考え方をする人がいるが、どうも私にはそういう翻訳厳格主義は受け入れられない。詩とか前衛小説なら、翻訳では分からないということもあろうが、普通のリアリズム小説なら、まともに読めればいいのではないか。
 以前、平川祐弘先生に、誤訳なんて、いっぺん訳してからもう一度見直せばいいのに、と言ったら、「そんなこと、してられないんだよ」と言われたことがある。要するに、ベストセラーになるような翻訳なら、もう一度見直しても元が取れるが、増刷もしないような翻訳でそんなことをしていたら、やってられないということだ。
 その割には、新潮文庫の『ティファニーで朝食を』みたいなとんでもない翻訳、売れているはずなのに、直らないし、堀口大學や井上勇のアルセーヌ・リュパンなんてのも、もう取り替えるべきだろう。
 (小谷野敦