言論は死んだ

 二年半続けさせてもらった『文学界』の連載だが、前回で打ち切りと決まった。1973年だったか、立原正秋が『諸君!』に「男性的文学論」というエッセイを連載していて、芥川賞の選考委員が老齢化して、有望な新人に賞をやらないということを書いて、編集部から削除され、遂に連載を打ち切って『潮』に移動したことがある。
 私の場合は、ここに書いた小林信彦「うらなり」批判である。ゲラにまでなった段階でストップがかかった。ブログに書いたものだからなどと言っていたが、最後には、内容に疑念を出してきた。私は、ではこれは見送って、佐藤優批判を出すと言ったが、そういう論争の場にはしてほしくないと言われた。それで、打ち切りと決めた。
 『文学界』に載った小説の批判を同誌でやれないとか、連載中の人物の批判を載せられないとか、つまるところはそういうことだが、『週刊金曜日』もまた、佐藤への返答をウェブページに載せることを断ってきた。佐藤は卑怯にも大鹿記者には質問状を公開しつつ、私が書いていることには答えない。佐藤は休職中とはいえ国家公務員であるから、一国民たる私に「稚拙な議論」などといい逃げすることは国家公務員法および憲法違反だと思う。
 議論の内容ではなく、柄谷といい、佐藤といい、なぜ正々堂々と議論をしようとせず、活字メディアはそれを忌避しようとするのか。先般大岡昇平論で書いたとおり、昔は『群像』に、大岡による海音寺潮五郎批判に対する海音寺の激しい反論と、大岡の再反論、海音寺の再々反論が一度に載ったりしていたのだ。
 世は私を嘲笑するかもしれない。世渡りの下手なやつとあざ笑い、佐藤の術策に手を打って礼賛するかもしれない。いったいに世は不思議なものである。いったいいつから、佐藤のような天皇崇拝家が、「左翼」から何の批判も受けないような世になったのか。護憲をバカのように唱えてさえいればいいのか。しかも「共和制になればファシズムになる」などというバカげた議論に、誰も異を唱えない。
 衆愚が礼賛すればそいつの勝ちというのは、民主主義という制度を採用したときから決められていた筋道なのだろう。
 私は敗北した。そしてこれからも、敗北し続けるのだろう。
小谷野敦
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 佐藤は憲法九条を守れと唱えているが、九条を守ってどうやって北朝鮮と戦争できるというのだ。あちこち矛盾だらけ、保守派の集まりでは、国体を守らなければならない、と言って拍手喝采され、『世界』の連載では、それだけではまずいから、共和制になるとファシズムになるなどと言う。こんなインチキ外交官に喝采している連中って、バカとしか言いようがない。
 私に応対したのも伊田浩之という、音だけ聞くとオカルトにはまった大阪のほうの学者のようなやつだが、再三居留守を使ったあげく、嫌味なメールで断りを言ってきた。くたばれ「週刊金曜日