痴愚書礼讃

 −−雉子も鳴かずば撃たれまい−−昨年十月に出た本で、毎日や朝日にも書評は出なかったから気づかなかったので、たまたま書店で見つけなければここで痛罵されずに済んだであろう本−−岩下尚史の『芸者論』(雄山閣)である。本そのものには、著者の経歴、生年などは書いてなく、どうやら新橋演舞場勤務で、これが最初の本であること、続いて続編が出ることくらいしか分からないが、ネット上の情報では1961年生まれ、國學院大卒である。
 「世にはハレとかケとか聖とか賤といった学問用語で遊女を論じ、神聖視するようなものがあり、その一方で民主的概念で断罪するようなものがあるが、私はそのどちらにもならない」(大意)とあったので、購入した。が、前者と同じ穴のムジナであった。
 第一に、ものの言いようが気障である。自分は新橋の劇場に勤めて藝者衆の真の姿を知っているといった「ですます」体の語り口に始まって、雄山閣主人が「お茶屋の内証、芸者の噂に通じた閑人を手取りにしようと、網を打ったところへ私が掛かり、尾鰭も揃わぬままに俎上に載せられ、東京の秘境の先達を勤めることになりました」とは、昔なら半可通の名を頂戴したであろう厭味さ。
 だがもちろん、問題なのは内容である。著者が通じているという近代藝者に関する事実が、事実であれば、いくら藝者を賛美しても構わない。だが、何しろ國學院であるから、折口信夫の書いたものを信奉している。折口の書いたものは大方は文学作品であり、藝能史において業績があり、いくらか見るべき点はあるものの、その『古代研究』など、まるで古代人が乗り移って書いているような、論証も検証もないだらだらしたイタコの口寄せめいたもので、文学作品としての価値も学問的価値もない、紙の無駄である。しかし著者は、そういうやり方でなければ日本の古い生活や感情は伝わらないなどと、平田篤胤めいた神憑りで言う。折口に古代人が乗り移ったと信じているらしい。
 もう、こうなったらあとは末期国学以来の伝統的妄想の驀進である。古代日本について、何が証拠だか分からぬたわ言を並べて、遊女を論じているのか藝者を論じているのか、関東の一豪族が後鳥羽法皇に謀叛を起こして流罪にし奉ったと天皇崇拝家ぶりを発揮。北条氏を源氏の後ろ楯と見ているようだが、北条は平氏であるから、実際は関東平氏の自立であると、これは角田文衛先生の説である。また古代においては一夜妻といって云々とくるが、さて妊娠したらどうするんでしょうね岩下先生。まぐわうとはらむ、ということをご存じないか。むろん、折口は知らぬかもしれぬ。ホモだから。
 学問をはなから野暮なものと軽蔑しているかと思いきや、南北朝期に職人たちは卑しめられるようになったなどと網野善彦の胡乱な理論の受け売り、だが参考文献表にも網野の名はなく、「白拍子の推参」の語は阿部泰郎でも読んだか。
 果ては、徳川期遊里は神婚儀礼の復活だ、とは、折口が「残滓がある」と言った短い文章を大幅に拡大したもので、これでは「ハレだのケだの聖だの賤だの」言う佐伯さんと同じではないか。年齢が45なだけたちが悪い。さらにまた「色好み」の徳、という。これまた折口の想像で、「色好み」の語が肯定的に使われたのは『徒然草』が最初である。そして吉原は平安朝後宮に倣ったものだと、とんでもないことを言い出す。支那の外教坊に倣ったものに決まっているではないか。アソビメを玉鎮めで説明するあたり、滝川政次郎先生曰く「アソビメとアソビべはキンカクシとキンカクジほども違う」。
 マリア・ルス号事件について、ペルー政府から言われたなどと書いてあるが、冗談じゃない。船長が雇った英国人弁護士が、娼婦だって奴隷じゃないかと言っただけで、ペルー政府は裁判の結果に苦情を言っただけである。しかも、娼妓解放令は諸外国からの批判を避けるためだったとあるが、徳川幕府も人身売買は禁じていたし、明治初年から既に禁令の方針は出ていた。さらに「吉原の遊女は自由の身となり、大門の外に出られるようになった」とは大嘘、明治33年になっても吉原から逃げようとする娼婦とそれを助けようとする救世軍が、妓夫と大立ち回りをやっている。「吉原炎上」にもそういう情景があるのに、何を言うておるのか。
 最後には、夫婦揃ってのお茶屋遊びの勧め、とこれまた近来のブルジョワ趣味丸出しだが、そりゃ遊女藝妓の本道から逸脱しておろう。身を売らない藝者を論じたいなら魂振りだのアソビメだの言わぬがよいし、遊び女を論じるなら藝者ではなくソープ嬢を論じるがいい。もっとも、男が本格的に新橋藝者相手に「遊」ぼうと思ったら、山を持っている親の資産でもなけりゃあかなわぬことだろうが。
 遊女関連の本ではまじめで知られた雄山閣、これはまたとんだ本を出したものだなあ。こんな珍本を読むくらいなら、陳奮館主人の『江戸の藝者』を読んだ方がよほど利得である。
 この痴愚書を礼讃しているのは、もちろん、田中優子である(佐伯さんじゃなくて良かった)。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/books/30191/

しかし、一つだけ有益なことが書いてある。「花街」を「はなまち」と読むのが間違いであるということ。これは「いろまち」に対する漢語で「かがい」であり、「花街の母」で「はなまち」と読んだのが間違いなのだということである。加藤政洋が『花街』で、藝者が集まるのが花街、売笑をするのが色街と区別したのは間違いである。明田鉄男の『日本花街史』がありながら、私はこのことに気づかず、加藤著を書評してしまった。不明を恥じる。

 ついでながら、佐伯さんのオカルト対談を聞いて感動しているのは、こんなヒト。
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 竹熊健太郎先生のご病状、陰ながら心配しております。
ところでコメント欄に
「私も来週手術で入院しますが、たけくまセンセとわたくしとでは大人と子供、象とアリ、朝日新聞の原稿料と某出版社の原稿料・・なぐらい差の」
 とありますが、朝日新聞は社員の給料はいいけれど原稿料は特に・・・。朝日カルチャーセンターなんて一回二万五千円で、みんな朝日新聞に名前が出るから引き受けているとしか思えないです。原稿料がいい、といえば、何といっても化粧品会社と結託している女性雑誌。

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井上章一さんの『夢と魅惑の全体主義』のあとがきに、1990年代に渋谷のタワーレコードで、「全体主義の台頭」「共産主義の台頭」というCDが売れているのを見た、と書いてあった。ナチの歌とかヒトラーの演説とか、インターナショナルとかが入っているらしい。私はアマゾンで検索したが見つからず、井上さんに正確な題名をはがきで尋ねた。井上さんはメールをやらないのである。すると、今でもある、という返事が来たので、私はタワーレコードに出向いた。だが見つからないので、店員に、これこれこういう内容で、題名はかくかく、と伝えたが、15分くらい店員はあちこちうろうろしたあげく、昔はあったかもしれない、と言う。仕方なく、年賀状で井上さんに「見つかりませんでした」と伝えたら、折り返し「行ってみたらありました。題名はRise of FascismとRise of Communism、とあった。それでアマゾンで検索したら、あった。
 タワーレコードの店員は、無能だ。
 ところでその時、中学生男子三人組がタワーレコードのエレベーターに乗っていて、いかにも子供らしく外の風景を見ながら「あっ、じじいが歩いてる」「渋谷へ来るな。渋谷は若者の町だ」などと言っていた。子供の癖に何が若者だ。私が中学生の頃も、「青春」などという言葉を使う奴らがいて、中学生で何が青春だ、と中学生の私は思っていた。
 何しろまだ体つきが子供なので、この私でも急襲すればこの中学生二人ぐらいはしばき倒せるかな、などと空想したのであった。