遺族の手記

 奈良の女児誘拐殺害犯が控訴を自らとりさげて死刑が確定し、幼女の両親の手記が公表された。どうも最近、この手の「手記」がはやっているようだが、よろしくない。今回は「反省して苦しんで欲しい」云々とあるが、「早く死刑になってくれ」とか「殺してもあきたりない」とか、書きにくいだろうし、結局は公衆に媚び同情をかうような書き方をせざるをえなくなるだろう。あの小林なる者が「反省」したり「後悔」したりするわけがないではないか。私が遺族なら「普通の死刑では甘い。去勢とか、手足を一本一本切り落とすとか、残虐な死刑にしてほしい。憲法を改正してでも」と書くかもしれない。すると公衆は許さないだろう。「変な遺族だ」ということになるだろう。なんで殺人事件の遺族まで「優等生」的な対応を強いられるのか。マスコミは、手記を書かせたりするのはやめるべきである。

 『中央公論』の11月号では、麻原彰晃の死刑確定に触れて藤原智美が、死刑をテレビ中継せよなどと書いている。どうも死刑反対派ではないかと思うのだが、やはり知識人世界では私のようなのは異端なのだ。だいたい裁判すらテレビ中継されないのに、なんで死刑を中継せねばならんのか。別にしたっていい。かつては死刑は見世物ですらあった。藤原が、過去のように死刑囚は市中引き回しとか、通りがかりの者による鋸引きにせよとか言うなら分かるが、そういう意図でもなさそうである。