加賀野井秀一センセの奇妙な反論

 呉智英先生の新刊『健全なる精神』をさっそく買ってきて読んだら、中央大学教授・加賀野井秀一センセ(呉さんの表記)の『日本語を叱る!』で「すべからく」が誤用されている、と呉さんが産経新聞の「断」で書いたら加賀野井センセが反論してきた、とあるので、その反論を探してみた。

【断】書評をダメにする書評家
2006.9.23   
 8月25日付の本欄、呉智英さんによって拙著『日本語を叱る!』(ちくま新書)が取り上げられました。PRには大変ありがたいのですが、内容に関してはあまりにもバイアスがかかりすぎており、文句の一つもつけておきたいと思った次第です。
 私自身、書評を手がけておりますし、これまでの拙著にもさまざまな評価をいただきました。もちろん、評者によって主義主張がちがえば、毀誉褒貶いろいろと生じてくるのも当然のことでありましょう。ですから、普段は、それらに一喜一憂しながらも、なるほどそんな見方もあるのかと納得することしきりです。
 ところが、今回の呉さんのものは、そうではない。自己顕示欲と悪意に満ちた文章としか思えません。当初より私の名に「センセ」をつけて揶揄し(呉さんの方が年配ですが)、「すべからく」の「誤用」(私としては少々意図的なのですが)の揚げ足取りに終始する。
 「叱る」という言葉の意味も、「厚化粧」という形容も、見事にズラしてご自分の文脈で使っていらっしゃる。
 私は拙著に、「翻訳」概念を用いて日本語を再構築する夢を託しています。そうした全体構想への評価はないままに、導入の2章のみをあげつらいながら、こんなことをくどくどと書いているのは、まさしく、ご自身のおっしゃるように「雑文家」の手すさび以外の何物でもないでしょう。
 批判をするのはいいが、そこに愛情のかけらもないのはいただけない。書評をダメにする書評家は「すべからく口をつぐむべし」です。それにしても呉智英さん、どうして私ごときにこんなに毒づくのでしょうかねえ。
 (中央大学教授・加賀野井秀一

 単なる文句だが、「少々意図的」というのが気になる。どう意図的なのか、加賀野井センセ、説明していただきたいものである。
 ソシュールだのドゥルーズだの、時代遅れのニュー赤言語学にとりつかれたセンセには、説明できないのだろうか。(この「ニュー赤」は意図的である)

追記:しかしよく見たら加賀野井先生の元の文は「「すべからくこうした厚化粧はごめんこうむりたいものだ」で、主語が「ごめんこうむる」加賀野井先生だから変は変だが「すべからくこうした厚化粧はやめてほしい」なら誤用ではない。しかし、それならそれでそう反論すればいいのに、何でそうしなかったのだろうか。