渋×知×事件顛末

 その女から手紙が来たのは、一九九九年の五月末か六月はじめだったと思う。当時私は、三月に大阪大学を退職して東京に引っ越していたが、著書『もてない男』が売れていたため、東京へ帰るととたんに次々と、本を書いてくれという編集者が会いに来たり、テレビ出演を頼まれたり、取材を受けたりしてだいぶ疲れていた。その女、STは、東大の大学院で教育社会学を専攻する者と名乗り、所属は教育学研究科だったが、社会学上野千鶴子ゼミにも出、井上章一氏が事実上主催する「性欲研」にも参加しており、「童貞」について修士論文を書いたので、『もてない男』も興味深く読んだ。ついては上野ゼミの「裏ゼミ」である研究会へ来て話してくれないか、というのが手紙の趣旨だった。私は、いま余りに疲れていて、申し訳ないが行けない、という返事を書いた。
 ところがほどなく、STと会う機会が訪れた。六月二十六日に東京学芸大学で開かれた比較家族史学会というのに、知人の誘いで出席したところ、STも発表者になっていたのである。もっともその際STは寝坊して遅刻したので、後々まで記憶されることになった。その日の学会が終わって懇親会場へ向かう途次、私は著作は読んでいたがやはり初めて会った赤川学氏やSTと話した。ちょうど『AERAMOOK 恋愛学がわかる。』が出たところで、編集者の秩父さんが何冊か持ってきて渡してくれた。懇親会場で、私は、先輩である佐伯順子の『遊女の文化史』に見られる、近世遊女を神聖なものとする議論はおかしいのではないか、という話をSTとしていたら、後ろで聞いていた中世史の服藤早苗先生が、あれはひどい、あの人はしかも批判されても答えようとしない、と言われた。私が佐伯氏を批判する本の準備をしている、と話すとSTは、「それはやるべきです。佐伯順子を批判できるのは、小谷野さんしかいません」と言ったのである。一方、私が大阪の飛田にある売春施設地帯を訪れた話をして、「中には入らなかったけどね」と言った時STは、「良かった」と呟いた。
 その後STとはメールのやりとりをするようになり、彼女は再三、佐伯さんへの批判を書いてきた。もっともこの時点では、私は批判本を出す決心がつかなかった。何しろ大学院の先輩を批判するのである。次にSTと会ったのは、十月九日に開かれた私の出版記念パーティでである。これは平川祐弘先生の発議で開かれたもので、二十数名を招いた。赤川学氏、藤本由香里氏、稲賀繁美氏、夏石番矢氏などが来てくれた。さて、この時STをスピーチに指名すると「小谷野さんは『男であることの困難』で、自分は童貞である、と書かれました」と言ったので、後で私が壇上にあがった時、そんなことは書いていません、と訂正したが、これはあくまでエピソードに止まる。むしろ発議者の平川先生のスピーチのほうが問題だった。平川先生は、セクハラめいた言い方で、佐伯氏の『「色」と「愛」の比較文化史』が私の『〈男の恋〉の文学史』に勝っている、と言ったのである。私の出版記念会のスピーチでそういうことを言うのは失礼だ、という意見もあったが、私は学問的判断として平川先生は間違っている、と思った。そこで『江戸幻想批判』の出版を決意し、新曜社の渦岡謙一さんに連絡したのである。
 その後またほどなく、STに会う機会があった。例の「性欲研」の合宿が本郷の古い宿屋で開かれることになり、これに井上さんから、ゲストとして講演してくれないかと言われたのである。十月二十二日、私は出掛けていって、ほぼ『江戸幻想批判』の主要部分の話をした。その後、みんなで呑みに行った。それ以前、私は性欲研のメーリングリストにSTの提案によって登録されたが、STの論文について赤川君が辛辣な批評を加え、激論めいた状態になっていたが、その場では和解めいたやりとりがあった。
 私も気弱になっていたから、『江戸幻想批判』のあとがきで何人か、「味方」になってくれそうな人々の名を謝辞として挙げた。これは紛れもない、私の弱さである。その中に、「佐伯さんを批判できるのは小谷野さんしかいません」とSTが言った、という一文もあった。私の本が刊行されたのは十二月はじめだったが、さすがに私としては緊張せざるをえなかった。謹呈した平川先生からは、『遊女の文化史』の何が間違っているのかよく分かった、というお手紙が来た。ところが当初、STからは何も言ってこなかった。いや、性欲研の人びとの誰からも、しばらく反応がなかったのである。私はSTに何度かメールを出したが、返事はなかった。そのころ関西方面で性欲研の集まりがあったと聞いたので、私は赤川氏に、何かあったのか、というメールを出した。それにも数日返事がなかったので、彼らが佐伯順子方についたのか、と思った私は、STへの絶縁メールを用意していたら、赤川氏からのんびりした返答が来たので、危うくそういうメールを出すところだったよ、と返事した。十二月末「性欲研の名前を出したのはまずかったでしょうか」というメールをSTに送ったら、一月三日、「前の研究会では、小谷野さんの本自体は話題になりましたが、特にそういう話は出ていませんでした」云々、そしてまた、佐伯氏について「分不相応な売れ方をすると、あとで困るのだと、学びました」とあった。
 その頃、勁草書房から『クイアジャパン』という不定期刊行雑誌が刊行され、その第一号に風俗ライターの松沢呉一が「売買春肯定論」を書いていた。これを買ったのは一月十三日である。松沢がそういうものを書く予定であることは聞いていたが、「反論があったら寄せてください」とあったので、私はそれを書いた。それより先、私は売買春に対する見解を十一月二日発売の『諸君!』十二月号(十一月二日発売)に載せていた。私はその当時、「フェミニスト」を名乗るSTは、当然売買春を認めない立場だと思っていた。ただしそのことは、『江戸幻想批判』の中心的批判点とは関係のないことである。
 STも、売買春論を書いていて、その中で『諸君!』の私の原稿を批判した箇所があるので見てください、というので見て、これくらいなら別にいいですよ、と言ったら、安心しました、ということだった。私が『クイアジャパン』に原稿を送ったところ、もう一人書いた方がいます、と編集者が言ってきて、STは、それは多分私です、と言った。これは一月二十九日のメールである。だがそのメールで、当時出た杉田聡の『男権主義的セクシュアリティー』に対して、「青木書店だからダメな本だと思っていたらやっぱりダメでした」とSTは言ってきたのである。私も、さほど出来のいい本だとは思わなかったが、
この「青木書店だから」には、小生意気なものを感じた。
 さて、この辺までは割に穏やかに物事は進んでいたのだが、二月九日、私が書店で、松沢編の『売る売らないはワタシが決める』を見つけたあたりから、おかしくなってくる。これは既に昨年出ていたものだったが、そこで松沢に下劣な批判を受けていたことに気づいた私は、ただちに『クイアジャパン』の、既に提出した原稿に反論を付け加えた。STにも、松沢の言うのはおかしい、また、杉田聡のどこがそんなにいけないのか、と問うたところ、二月十二日のメールで、「性労働者の労働権はどうなんだよ、お前」ってところです、と言ってきた。これは松沢の言い方と同じなので、おや? と思った。しかも一月
号の『思想』に浅野千恵氏が、「性の商品化と暴力は本質的に結びついている」と書いていたのを非難して、そういう言い方が買春者に暴力を振るう根拠を与えるのだ、と言う。これも松沢と同じ理屈だが、しかし暴力を振るうような買春者が『思想』など読むわけないでしょ、と返事したら、何やら不満げであった。ところがSTは、この松沢編著の出版記念会に出席したという。それは別にいい。だがSTは松沢の「セックスワーカー論」にだいぶ洗脳されたらしく、私も、どうも親切心が過ぎるのか、単に松沢に怒りを覚えたせいか、後に「売買春撲滅論」として『恋愛の超克』に載せることになる草稿を書いて、STの洗脳を解こうと思い、書いた旨伝えると、STは、自分は「売春OK、買春もよいものならOK」派である、と二月十九日のメールで言ってきたのである。だが、後に『クイアジャパン』二号に掲載されたSTの論文「買春改善論」は、マルクスの価値発生の売春への応用を完全に間違えたもので、お話にならなかった。さて先ほどの原稿を私は郵送した(当時まだメール添付という技術を身につけていなかった)。その中で、松沢のレトリックに生煮えフェミニストが騙されて、と書いたのだが、受け取ったSTは、二月二十三日のメールで「こんにちは/『煮え切らないフェミニスト』こと渋谷です」と始まるメールをよこした。もう完全に険悪になってきていたのである。「買春改善論」では、女を買うのはいいけれど敬意をもって買え、という趣旨のものだった。しかしそんなこと誰が検証できるわけでなし、バカバカしいと思ったのだが、この時点ではそれを見ていない。メールで議論が戦わされた末、「あなたは私が飛田遊廓へ入らなかった、と言った時、『良かった』と言ったでしょう。買春する男をあなたは尊敬できますか?」と訊いたら、ぷつりと音信が途絶えた。
 三月五日、私は関西へ行って、当時の妻が選んだマンションに滞在していた。七日、渦岡さんからメールが来た。「今日、渋谷知美さんという方から、社長と私に(そして、たぶん小谷野さんにも)『内容証明付き』の文書が来ました。どう対処したらいいでしょう」云々というのだ。もっとも渦岡さんは、私が同じものを見ていると思っているから、話が通じていない。私宛のものは東京の住所へ来たのだろうが、結局私は受け取らなかった。すぐ渦岡さんに電話して、ファックスしてくれるよう頼んだ。
 その時のものは二枚、内容は、小谷野は『江戸幻想批判』でSTに無断で謝辞を書いた、無断で私的会話を文章にした、次の増刷で削除せよ、また小谷野氏には今後一切無断で私的会話を引用しないように、というものだった。
 明らかに「売買春論争」の報復だ、と私は思った。内容証明というものが、それ自体で特に法的効力を持つわけではないということは、その当時は知らなかったし、さすがに狼狽して、井上章一さんに電話して相談した。井上さんは、何とか言ってみる、と言ってくれた。そこで私は、削除などすると、気づいた人が何か邪推しないでもないから(これは井上さんが言ったことである)、バカなことはおよしなさい、もし私に異論があるならこのような手段を取らず堂々と批判の論陣を張ればいいでしょう、とST宛メールを送ったが、返事はなかった。
 東京へ帰ったのは十二日である。『クイアジャパン』二号に載ったSTの論文(と言えるかどうか疑わしい)には、以前私に確認を求めた私への批判の部分が書き直されて、「性労働者への差別をなくす気がないなら、売買春について語るのをやめるべきである」などとあった。これなど、学者として言うべき言葉ではない。しかし「内容証明」のほうはそのまま立ち消えになるのかと思っていたら、四月十九日付けで、さらに長い、かつ無礼な六枚にわたる内容証明郵便が届いた。内容証明というのは、三部を作って、一部を手元に、一部を郵便局に預けるものだ。この女は、編集者および社長にも出しているから、五
十四枚のコピーを作ったことになる。呆れる。その内容は、まず、新曜社のほうから返事がなかったことを詰り、私のメールに反論している。私は、謝辞を書くのに当人の許諾を得るのが「言論人の常識」だとは聞いたことがない、と書いたのだが、STは、これは小谷野氏の常識知らずぶりを露呈している、謝辞を書くというのは、自分はこの人とつながりがあるということを表明する、きわめて政治的な行為である、と書いていた。また、私が、個人的に口頭で述べたことを引用することなど、普通に行われている、と書いたのに対し、ルール違反の横行はルール違反そのものを免罪しない、ご自分のミスを率直に認め
てはいかがでしょう、と言い、改める気がないのなら、こちらも今後の小谷野氏とのおつきあいを考えざるをえません、などとある。冗談ではない、こんな女とのつきあいはこちらから御免こうむる。
 また私が、「佐伯さんに対するあなたの発言を活字にして、どのような迷惑が掛かるのか」と問うたのに対して、「私はまだ面識のない佐伯さんにどんな顔をして会えばいいのか」と言うのだ。STの大学院生としての専攻は教育社会学であって、佐伯さんとは全然違う。これが、STの専攻における大物教授だったら、私とて軽々にそんなことを書きはしない。第一、STは何者として、どこで佐伯さんに会うつもりなのだろう。この女が考えているのは、マスコミ的に売り出すことだったようだ。別に野心家であること自体は悪いことではない。しかし現にそのようなことを何度か言っておいて、素知らぬ顔で佐伯さんに会おうなどと考え、その野心を邪魔されたと言って内容証明を送ってくるなどというのは驚くべき破廉恥さである。
 また私の、「削除すれば気づいて変に思う人もいるだろう」という文言に対してST曰く、「言葉の使い方に注意してください。謝辞を削って困るのは私ではなく小谷野氏でしょう。『僕はフェミニストに認められている』と吹聴する証拠が一つ無くなるのですから」。阿呆か。こんな無名の「フェミニスト」に認められたなどと吹聴するほど私が「フェミニスト」に配慮する何の必要があるのか。しかも、本来なら「第一版を店頭から回収せよ」と言う権利が自分にはあるのにそれを控え、第二版以降は削除せよと譲歩してやっている、などと言う。Sよ、それを決めるのは裁判所だよ。そして私がメールで、丁寧に

 私は渋谷さんに、優秀かつ「公正」な研究者として育って欲しいと期待しております。
 「意見」や「イデオロギー」と「学問」を混同したり、複数の意見を持つ個人を単一の意見によって判断するようなことをなさいませんよう。

 と書いたのに対して、ご期待ありがとうございます、しかし言論世界の「常識」を知らない方に大成を願ってもらうほど渋谷は落ちぶれておりません。小谷野氏が「恥」も知らない言論人だったなどということのないように、今後の対応を見守りたい、とあった。
 私は激怒して、罵倒メールを作成して送ろうとしたら、当時の妻が、まず電話を掛けて話してみるから、と言って止め、Sの自宅(実家)に電話して「小谷野です」と名乗ったら、母親が出たらしい。不在だというのでまた掛け直したが、何度掛けても今度は出ないので、妻は「堂々と話もできないということですね」と留守電に入れたという。そこで私は罵倒メールを出した。その一方、私が属している日本文芸家協会の顧問弁護士に、渦岡さんと一緒に会いに行ってこの内容証明を見せたら、こりゃあまともじゃない、相手にしない方がいい、と言われた。
 なおこのST、それから三年後にセックス学系の新書版を出したが、『諸君!』で上野千鶴子とバカ丸出しの対談をし(*)、程なく朝日新聞社のPR誌『一冊の本』で、セックス系の本を女が書いたということを強調して読まれたとか、取材で不快な思いをしたとか愚痴っていたが、その新書版の宣伝広告に和服姿で微笑を浮かべつつ登場して思いっきり「女」を強調し、売ろうとしていたのはお前だろう。しかもその本では、売買春は基本的に認めないが、身体障害者については別途考える、と書いてあったから、姿勢を変えたのかと思い、某氏を通じて確認したら、その場によって言うことを変えるのだそうだ。
 さて、別途書いた通り、STの師匠たる上野千鶴子を含め、この「セックスワーカー論」はまったくそれっきり、唯一永田えり子が松沢に反論した以外は、見事なまでにごちゃごちゃっとお茶を濁してしまった。そういう連中が、ジェンダーフリーがどうとか言っていて、信じる気になると思うか?

(*)仲正昌樹は、北田暁大に「『諸君!』に出て何が悪いか」と書いたが、だから北田にとって、『諸君!』に出るのはいいのである。というか、上野千鶴子なら何をしてもいいのである。