柏原兵三と小堀桂一郎

柏原兵三(1933-71)というのは、夭折した芥川賞作家で、東大独文科から大学院へ行き、68年に「徳山道助の帰郷」という、母方の祖父である陸軍中将をモデルとした小説で芥川賞をとり、盛んに執筆したが、東京芸大助教授だった71年に脳出血のため38歳で死んでいる。戦争中、疎開先でいじめられた経験を描いた『長い道』をのちに藤子不二雄Aがマンガ化したことで記憶を新たにされ、『徳山道助の帰郷』も講談社文芸文庫に入った。

 1973年に講談社から出た「現代の文学」という叢書の第34巻は「丸谷才一、柴田翔、柏原兵三、田久保英夫」と、四人の比較的新しい芥川賞作家を収録しているが、このうち、柏原についての解説を書いているのが小堀桂一郎であることに気づいて、知らなかったので意外の感を抱いた。

 というのは、軍人であった祖父というあたりは小堀さん的だし、そもそも二人は独文科で一緒だったのではないかと思うが、解説そのものに、知り合いだったという記述はなく、それにしても頼むのだから知り合いだったのではないかと思う。

 ところで柏原といえばヨーゼフ・ロートの「ラデツキー行進曲」を訳しているのだが、比較で私の一つ上にいた森永さんという女性がロートで修士論文を書いて、比較ではないというので追い出されたことがあり、その後独文科の院へ行って今は大学教授になっているのだが、彼女は小堀さんが柏原の解説を書いていたのを知らなかっただろうな、と思った。

九割はクズ

アメリカのSF作家シオドア・スタージョンが、SF作家の集まりで演説して「SFの九割はクズです」と言い、ざわめきが起こったところで「すべてのものの九割はクズです」と言ったという「スタージョンの法則」は有名である。私の『レビュー大全』という本は、本の九割はクズだということを示したものだが、こういうことはなかなか理解されないものだ。

 「児童文学を読む会」はのちに学者になった人も多く、文学についての議論の仕方を私はここで学んだが、主題となる作品は、二年くらいたって考えたら、やはり「九割はクズ」であった。感心したのは、ウィリアム・メインの『砂』、トールモー・ハウゲンの『夜の鳥』くらいで、私自身が提案した灰谷健次郎の『太陽の子』も、今では大した作だとは思っていない。また、『いやいやえん』のように、子供のころ読んで好きだという人と、今回初めて読んだ人とでは印象が違うというものもあった。『モモ』などは、みなが口を揃えて肯定的に言うので、これはおかしいと思って、それが偽物であることに気づいたという例である。『クローディアの秘密』は、入って最初の読書会でやって、分からなくて大変不安を感じたものだが、のちに綿矢りさの『インストール』を読んで、初めてこの児童文学が理解できたということもあった。

桝屋友子さんの思い出

 桝屋友子・東大東洋文化研究所教授が、6月21日に64歳で病気のため亡くなった。7月5日が葬儀だったという。桝屋さんはイスラーム美術が専門で、年齢は一つ上で、長崎県の出身である。私が知っているのは、大学時代私が所属していた「児童文学を読む会」にいらしたからである。もっとも桝屋さんは美術サークルのほうが本来の所属だったようだし、それほどこっちに出席するほうではなかった。

 このサークルでは「レポーター」と呼ばれる、番に当たった人が、自分が読書会でやりたい本を提案するのだが、桝屋さんが出したのは、「チョコレート工場の秘密」と、マルセル・シュオッブの「木の星」だった(後者ははじめ「少年十字軍」と言っていたが変えたようだ)。私にはどちらもあまり趣味ではなかった。

 美しい人だったが、英文学の新井潤美さんと同じタイプだった。恐らく当時のサークルの人びとが桝屋さんを強く印象づけたのは、サークルで月一回くらい出していた月報に桝屋さんが描いた漫画で、それは天体望遠鏡で遠い星を見ている少年が、耳にイヤホンをつけて、片方の先端を裸体の下半身のお尻の穴に差しており、これで遠い天体の放送が聴けるという、奇想ものだったからである。中にはこれを「猟奇趣味」と言っているやつもいたが、つまりは前衛芸術趣味で、美術史の大学院からニューヨークへ留学して、国立民族学博物館の助手から東文研へ移ってきたのだが、私の比較文学の後輩の山中由里子という、やはり中東の美術をやる人が東文研の助手から民博の教授になっているので、ちょっと一時混乱することがあった。

 その割に、それほどの思い出がないのは、実は物静かな人だったからであろう。年賀状に「今年はいじめないでね」と書いてあったことがあり、そんな意識はまったくなかったのでうろたえたこともあるが、繊細な桝屋さんは、私の粗雑な言葉からそんな感じを受けることもあったのだろうか。

 一つ、覚えているのが、当時本郷三丁目のルノワールで読書会をすることがあって、その時桝屋さんが私の右隣にいて、音楽が流れているのを、「ね、これ、「トゥオネラの白鳥」だよね?」と私に訊いたのだが、私は「さあ」と答え、桝屋さんは右隣にいた、のち考古学者となって名古屋大の教授になった周藤芳幸さんに、同じことを訊いたら、周藤さんが、貴族的な風貌で「うん、「トゥオネラの白鳥」だね」と言ったのだが、周藤さんは確か楽器をやっていたはずで、私たちの会話が聞こえていたはずなのに、それまで黙っていたという奥ゆかしさに、自分にはとてもできない、と思ったことがある。

 二つ上の笠浦友愛という、卒業後NHKに入った人も長崎出身で、中学あたりからの知り合いだったらしいのだが、私は2003年ころ、大阪大学で私が関係していた言語文化研究科という大学院で博士号をとった眞崎睦子さんという人から連絡をもらって、永福町で会ったこともあった。眞崎さんは一つ年上なのだが、活水女子短大を出てから結婚して、ずっと主婦をしていたのだが、40歳くらいで阪大へ入り直して、坂元一哉に教わったというから法学部を出たのだろうか。博士号をとってから、北大に就職していた。この眞崎さんが、桝屋、笠浦さんと知り合いだったので、「マスヤ」と「ス」にアクセントがある呼び方をしていたので、私がメルアドを教えたので、久しぶりに二人でメールのやりとりをしたと言っていた。

 前にも書いたが、この眞崎さんが、深刻なパワハラに遭ってしまい、ちょっと音沙汰がなくなったあと、2017年に55歳で死んでしまうということがあり、翌年そのことを知った私が桝屋さんに問い合わせるということがあった。それから9年で、桝屋さんも行ってしまうとは思わなかった。

(小谷野敦)

(追記)そういえばもう一つ思い出した。何か本を読んでいて「桝屋」という商人の名が出てきたので、次に桝屋さんに会った時、その話をしたのだが、その時、何の本だったか忘れてしまった。桝屋さんのほうでも、「あっ、それ知ってる。えーと、何に出てきたんだっけ」と言い、二人とも同時に思い出して「新選組!」と言ったことがある。子母澤寛の『新選組始末記』に出てきたのだった。

「女学者丁々発止!」と金塚貞文

 私の最初の本『八犬伝綺想』が出たのと同じ1990年6月に『女学者丁々発止! われいかにしてフェミニストになりしや・ならざりしや』という軽装版の本が出た。当時話題の女学者たちに島崎今日子がインタビューしたもので、佐伯順子さんも出ていたので見つけてすぐ買った。島崎今日子はそのあと二度くらい会ったが、小倉千加子もこの本に出ていて、それから島崎と小倉は大変親しい関係にあった。あとは上野千鶴子、落合恵美子、長谷川三千子、織田元子といった面々だが、みな写真が出ていて、落合とか織田とか、美人なのに驚いた。もっとも織田というのは英文学者だが、それから数年して英文学者に聞いたら知らなかったし、その後どうしているか分からない。

 この本を「図書新聞」だか「読書人」で金塚貞文という人が書評していた。金塚は「オナニスト宣言」などで当時知られた評論家で、セックスは女を傷つけるから男はオナニーで我慢しろという思想の人だったようだ。しかしこのインタビュー集について金塚は、どいつもこいつもアカデミズムへの疑いがない、と言い、疑いがあるのは上野千鶴子と長谷川三千子くらいだと書いていて、私は、なかなかトリッキーな書評だなと思った。何しろ右翼の長谷川三千子と左翼の上野を並べるあたり、策士感があったからである。もっとも織田は知らないが、上野も長谷川も小倉も落合も佐伯さんも、今では私はみなインチキ学者だと思っている。要するにこういうマスコミ的な場に出てくる人というのはそういうものだということだ。

(小谷野敦)

岡崎祥久「キャッシュとディッシュ」アマゾンレビュー

この表題作は『文學界』に載った時、倉本さおりに教えられて読み、その哀切さは「フランダースの犬」どころではないと思い、私が勝手に作っている「小谷野賞」受賞作にした。それが倉本らの尽力で一冊になった。倉本が解説を書いているが、倉本は触れていない、この作家の境遇というもの抜きに理解するのが正しいのか、私には疑問である。岡崎祥久は本書に併収されている「秒速10センチの越冬」で群像新人賞を受賞し、ついで野間文芸新人賞も受賞した。この野間新人賞をとった作家は、大抵、当時は芥川賞をとるか、とらなくとも文壇構成員としてもっと派手やかに活躍するはずだった。だが岡崎はそうはいかず、しばらくして「ファンタスマゴリア」という長篇でファンタジーノベル大賞に応募したが受賞できず、「群像」に載せて本にもしてもらったが売れなかった。作家というのはこういう苦しい立場に追い込まれることがある。そこで書かれた「キャッシュとディッシュ」だと思って読むからいいのである、と私は思う。

(小谷野敦)

伝記のウソ・ホント

 丸谷才一の伝記を書こうかと思っても、日記や書簡などの資料がないとちゃんとしたものは書けない。本人の自伝から再構成する伝記というのはあるが、丸谷のように、私小説を嫌い、自分のことはなるべく秘してきた人は無理である。

 学問的にいえば、日記や書簡に書いてあることがどの程度本当かということは、歴史学でもあることで、西村賢太の日記のように、実は岡山のマンションに住んでいるのが隠されていたということがあとで分かったりする。

 さらに厄介なのは周囲の人間の書いた思い出エッセイの類で、記憶違いやウソが混じっている可能性はある。しかしこういうのは、矛盾しない限り、「・・・はこう書いている」としておけばいいし、後で訂正されることもある。ホントかどうか悩むあまり伝記を抛棄してはいけない。

秦恒平さんの思い出

 作家の秦恒平さんが90歳で亡くなった。私と誕生日が同じだったが、「清経入水」で太宰治賞をとってデビューしてから、多くの小説・評論を書き、小森陽一が示唆した、夏目漱石の『こころ』で、「私」が「奥さん=静」と結婚するという結末を持つ「心・わが愛」という戯曲を書いて上演されている。東工大の客員教授も務めた。しかし、文学賞には恵まれず、芥川賞候補になったのが一回、晩年に出身地から京都府文化賞をもらっている。

 同志社大卒だが、出生の秘密を抱えており、作家の黒川創は甥だったというが、つきあいはないようだった。劇作家の秦建比子は息子だが、娘夫婦とは裁判をする結果になって、週刊誌に書かれたりした。波瀾の人生だったとも言えよう。

 私は大学院生のころ『慈子(あつこ)』という小説を集英社文庫で読んだが、現代風俗小説めいた中に古典への解釈が入り込んで、ずいぶん下手な小説だなと当惑した。代表作とされていたのは『みごもりの湖』で、のちに自身の本がほとんど絶版になったため、自費出版で「湖(うみ)の本」という全集を出して、毎月これがうちに届いた。

 知り合ったのは太宰治賞の授賞式でのことで、当時私は『谷崎潤一郎伝』の準備をしていたので、『谷崎潤一郎ー「源氏物語」体験』や『神と玩具の間』などの谷崎論を書いている秦さんに話を伺ったのである。その時、秦さんが「(伝記を書くというのは)暴くわけじゃないからね」と言ったのを覚えている。もっとも私はずいぶん暴くような書き方をしてきただろうと思う。

 『みごもりの湖』はずっと後になって読んだが、奈良時代の政争と現代京都の風俗絵巻をまぜこぜにして、随分下手な小説だなと思わざるをえなかった。それに対して『閑吟集』など日本古典の案内書などは面白く、うちの妻は高校時代にこれを読んで好きな歌をノートに書き写していたという。また『親指のマリア』という、新井白石が『西洋紀聞』を書く際に尋問したシドッチと白石を描いた歴史小説などは、「京都新聞」に連載されたものだが、結構達者な書きぶりで、むしろこういうのが評価されたら良かったなあ、と思った。秦さんが一度だけ芥川賞の候補になった時、選考委員の川端康成が欠席した。1972年1月のことで、川端はそのまま4月に自殺した。唯一の秦恒平論の著作がある川端研究家の原善は、この時川端が欠席していなかったら、と想像をめぐらしているが、結果は多分変わらなかったであろう。

 秦さんのエッセイで、若い頃女の人と歩いていたら、道ばたに汚いものがあった、というのがある。犬の糞か何かであろうか。女性が、それを口にして、汚い、と言ったら、秦さんは、そういうことは口にすることでよけい汚くなる、とたしなめた。女性はうつむいて、「私って、ばかね」と言ったという。「私はそうは思わなかった。だから彼女は今私の妻である」と結ばれる。このエッセイは、みごとに、秦恒平というのがどういう人であったかを語っていると思う。

(小谷野敦)