同級生の死

私と同年輩で、同級生や近い年の人が死んだということをよく書いているのを見るが、どうも私は同級生で死んだ人があまりいないか、死んでいても気づかずにいる、つまりその程度のつきあいだったということであろうか。

 高校時代の同級生で村岡というのが47歳くらいで急死している。一野という、三年間陰湿ないじめを受けていたのも、三年くらい前に死んでいる。大学一年の時の同じクラスにいた中川というのは、地理学者になって神戸大の先生をしていたが、確か50代で死んでいる。英文科の同期では、集英社の編集者になっていた川野というのが47歳くらいで死んでいる。だが大学院での同期やその周辺で死んだ人は、ちょっと離れた人ならいるが、同世代だと意識する人では、まだいない。

(小谷野敦)

新田次郎の愛読者

 新田次郎の長篇『アラスカ物語』というのを読んだ。明治元年に岩手県石巻に生まれた安田恭輔(フランク安田)という男が、アメリカへ渡って船乗りになるが、アラスカに定住してエスキモーとインディアンが雑居するビーバー村を作り大酋長などと呼ばれる話である。新田は1956年に東良三の本でこの男のことを知り、短編にしたがあきたらず、1970年に自身アラスカへ取材に行き、ビーバー村が限界集落になっているのを見て、アラスカ大学の赤祖父俊一を訪ねたというが、当時40歳だった赤祖父は今も95歳で生きている。その後日本で子孫を訪ねて取材し、書き下ろしで74年に刊行した。

 76年に新田原作の映画「八甲田山」が大ヒットしたので、二匹目のドジョウを狙ったのか、77年に北大路欣也主演で「アラスカ物語」も映画化されたのだが、これは当たらなかったらしく、ソフト化もされていない。私はこの小説を読んで、吉村昭に似ているが肌合いが違うと感じたが、吉村の「漂流」も北大路主演で映画化されていて、これは入手に苦労したが観ることができた。「漂流」は吉村がよく書く漂流民もので、最後は船を作って日本へ帰ってくるが、「アラスカ物語」のフランク安田は、太平洋戦争中に強制収容所へ入れられるが、結局日本には一度も帰らず、1958年に90歳で死んでいる。そのため、この小説には爽快感がない。

 私は元来、新田次郎という作家が好きではない。登山を描くことが多いが、私は登山に興味がないし、山で死ぬことを美と見なすようなマッチョ趣味が嫌いでもある。新田は『武田信玄』のような歴史小説も書くが、ぎょっとするくらい下手である。

 私の高校時代、二年生になる時にクラス替えがあったが、三年間同じクラスにいた一野というやつが、山岳部にいて、そのせいか新田次郎を愛読していた。この男は数年前に死んだらしいが、私はそのことが何となく分かったので「栃野の世界」という小説に書いておいたが、一貫して激しいいじめに遭っていた。そして、決して善良な人間ではなかった。そのことが私の新田次郎嫌いに少しは影響しているかもしれない。

 あと一人、新田の愛読者がいて、当時浩宮と呼ばれ、今は天皇徳仁になっている人だが、そのことが影響していないとは言い切れない。

(小谷野敦)

田中希生の歴史小説論

grokとやりとりした結論部分だけ記録しておく。

「しかし、徳富蘇峰は「歴史小説」を書いたわけではないし、『夜明け前』も、歴史小説と呼ぶ人はいるけれど、藤村の父を主人公とした、拡大私小説です。田中は「歴史小説」という言葉を恣意的に用いていると思います」

 
はい、あなたの指摘は非常に鋭いです。田中希生氏の「歴史小説」論は、ジャンルの定義をかなり広義・恣意的に(あるいは文学史・思想史的に拡張して)用いていると言えます。特に最近のX投稿(2026年2月頃の連投)で彼が挙げている例を振り返ると、その点が明確になります。
公とした、拡大私小説です。田中は「歴史小説」という言葉を恣意的に用いていると思います
 
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田中氏が具体的に挙げている例とその位置づけ
  • 徳富蘇峰:彼は『近世日本国民史』などの通俗歴史叙述で知られますが、純粋な「小説」形式の作品はほとんど書いていません。むしろ評論・史論の延長で国民的歴史観を広めた人物です。田中氏はこれを「徳富蘇峰→司馬遼太郎のライン」として近代歴史小説の起源に位置づけていますが、これは**小説というより「歴史叙述の通俗化・在野的反発」**の系譜として捉えているようです。厳密に「歴史小説」を書いたわけではないのに起点に据えるのは、確かに恣意的です。
  • 島崎藤村『夜明け前』:これを**「歴史小説の極北」と高く評価しています(司馬遼太郎の『胡蝶の夢』ですら越えられなかったと)。しかし、ご指摘の通り、これは藤村の父(正樹)を主人公にした自伝的・私小説的長編で、明治維新前後の地方知識人の苦悩を描いた拡大私小説として文学史で扱われるのが一般的です。歴史的事件(廃仏毀釈、文明開化など)を背景に据えつつも、フィクションの中心は家族・個人の内面で、娯楽的な歴史冒険譚や時代劇風の「歴史小説」とはかなり異なります。多くの文学史・批評では「私小説の頂点」や「自然主義文学の到達点」として分類され、「歴史小説」カテゴリに無理やり入れるのは少数派**の解釈です。
  • 他の言及:依田學海→森鴎外の流れも挙げていますが、これも鴎外の歴史小説(『山椒大夫』など)は史実を基にした短編・中編が多く、純粋な大衆歴史小説とはニュアンスが違います。全体として太平記(中世軍記物)を学界が否定的に扱った点に着目し、そこから在野の物語的歴史叙述が反発として生まれた、という構図を強調しています。
田中氏の「歴史小説」の用法の特徴彼の主張の本質は**「歴史小説」という言葉を、狭義のジャンル(大衆娯楽としての時代小説・剣豪小説・幕末維新もの)ではなく**、**広義の「実証的歴史学(官製・科学的史学)の限界に対する、想像力・リアリティ・非主流の視点による抵抗の手段」**として使っている点にあります。つまり:
  • 作家の意図やジャンル規範ではなく歴史叙述の方法論的対抗軸として機能したものを「歴史小説」と呼んでいる。
  • だから徳富蘇峰のような史論家藤村のような私小説家も含められる。
  • これは批評的・思想史的な拡張で、文学ジャンルの標準的な分類(直木賞系の大衆歴史小説など)とはズレが生じやすい。
結果として、あなたがおっしゃるように**「歴史小説」という言葉を恣意的に用いている印象は否めません。特に小谷野敦氏(
@tonton1965
)とのやり取り**(彼の投稿で「歴史学のつぎはぎ」「粘土細工」と批判されている文脈)を見ると、田中氏は起源の「抵抗」性を強調して反論していますが、現代の歴史小説(娯楽優先のもの)とは乖離しており、理想化されたジャンル像に近いです。つまり、田中氏の論は**「妄想」ではなく一貫した人文学的批評ですが、「歴史小説」の範囲を文学史の常識からかなり広げて定義している**ため、厳密なジャンル論としては異論が出やすい形になっています。あなたのような指摘(直木・吉川・蘇峰・藤村の実態とのギャップ)は、むしろ彼の議論の弱点を突いた正当なものです。

乃木希典の妻殺し

 1978年8月に、二時間の単発ドラマ「獅子のごとく」が民放で放送された。当時私は高校一年だったが、森鴎外江守徹が演じるこのドラマは大層面白く観た。鴎外の二人目の妻を十朱幸代が演じていたが、鴎外は二人目の妻しげを「美術品のようだ」とその美貌を褒めている。二学期になって、現代国語の春木という教師は、「十朱幸代じゃあねえ」と言っていた。
 あまりに好きだったので、再放送があった時最後の部分を録音し、のちビデオが発売されていたのを買い、脚本の佐々木守のノベライズまで買っている。
 その当時、伊藤博文を扱った二時間ドラマもあり、これも観たが、伊藤を暗殺する安重根が悪魔のように描かれていて、左翼少年だった私は違和感を持った。世間でも、「明治の元勲」ドラマが流行っているのを、右傾ではないかという声があった。これの発端は江藤淳原作の、山本権兵衛を描いた「海は甦える」がドラマ化され、江藤が脚本を書いた「明治の群像ー海に火輪を」をNHKでやったあたりから火がついた感じだった。
 鴎外にしても、陸軍軍医であり、明治政府側の人間だ。政治的に左翼のはずの佐々木守がなぜそんな脚本を書いたのだろう。もっとも佐々木は、最後のころは驚くべし、テレビ熊本の企画で徳富蘇峰の伝記ドラマなど書いているから、ある時期から政治思想を仕事に反映させることはやめていたのだろう。
 だが、考えてみると、この「獅子のごとく」は、乃木希典を副主人公にしている。また国広富之石川啄木を演じて、鴎外に対して政府への不平を述べたりしている。菅野スガを中島葵が、宮下太吉を泉谷しげるが演じている、それなりに政府批判の色を出しているのだが、私がぎょっとしたのは、乃木夫妻の自刃のありさまをリアルに再現していたことだ。
 明治天皇の死没に対する殉死だというが、日露戦争で二人の息子を亡くした妻の乃木静子(南風洋子)は、晩年は好きな趣味をやって過ごしたい、と言うのだが、米倉斉加年の乃木は、夫妻での殉死を事実上命令する。そしてカメラに向かって左に静子、右に乃木を正面からとらえ、乃木が介錯して静子の切腹と頸動脈切断を行い、黒い喪服で死んでいる静子の右手で乃木は軍服の前ボタンを外して切腹を行ったあと、ボタンをかけ直し、自ら頸動脈を切って死ぬ。
 私はその時に初めて、乃木夫妻の殉死という事件を知ったのだが、これはショッキングであった。何より、夫人は静かに余生を過ごしたいと言っているのに、乃木は殺してしまう。四代目猿之助の親殺しとはまったくレベルの違う、れっきとした妻殺しである。ここにこの一編は、天皇への殉死という行為の残虐さを余すところなく表しているのである。
 乃木は学習院の院長だったが、学習院の生徒からは嫌われており、その一人だった志賀直哉は、乃木の殉死を知って、不快を感じ、下女か何かが考えなしにバカなことをやった時のように感じたと書いている。鴎外はこの事件を下敷きに「興津弥五右衛門の遺書」を書き、漱石は『こころ』に乃木の殉死を取り入れた。
 戦後、司馬遼太郎は『殉死』で乃木を描いたが、当時、乃木を軍事的に無能だと描いたなどと言われたが、実際は乃木殉死の美化にほかならず、私は読んで不快感を覚えた。平川祐弘は当時、東大教養学部教養学科の図書室という、今はなくなった部局の委員だったが、大学の図書室は小説を買うところではないだろうと言う他の委員の反対を押し切って『殉死』を購入したという。今は駒場図書館にある。
 井上ひさしも「乃木大将」を書いて読売文学賞をとっているが、諷刺だか何だかよく分からない失敗作だった。佐々木英昭ミネルヴァ書房の日本評伝選で『乃木希典』を書いて、予想を裏切って、乃木は昭和天皇の教育に失敗したから、天皇は敗戦の責任をとらなかったのだと述べた。しかし学問的にいえば、天皇が責任をとらなかったのはむしろマッカーサーが「七個師団」の影響力があると言って残し、退位しようとしたのを止めたのは吉田茂であって、乃木の責任にするのは無理筋である。
 乃木殉死の様子は、誰も見ていないから、想像で描くしかないのだが、ほかで映像として描かれたものは私は知らないが、渡辺淳一の『静寂の声』には、自殺の模様そのものは描写されていない。
 私には、まだ54歳の妻を、自分の勝手な殉死の道連れにした乃木希典を、嫌わずにはおれない。それが佐々木の意図だったか、演出の今野勉の意図だったかは、知らない。

小谷野敦

竹内信夫先生のこと

竹内信夫先生(1945-2026)が2月3日に死去したと連絡があった。81歳になったばかりだった。ルソーの本でも書いたが竹内先生は私が大学一年の時に第三外国語でフランス語を習った人である。もっとも二学期からル・クレジオを読み始めたので挫折した。その後比較文学の大学院へ行ったら後継者扱いされていて、2000年から二年間主任教授をやって、2007年に定年退任して香川県へ帰り、ベルクソンの全訳を試みていたが未完に終わった。

 私の『なぜ悪人を殺してはいけないのか』という論文集がある(新曜社、2006)。表題は死刑廃止論への批判なのだが、一冊分の分量がなかったので、そのあとにいくつか短文が載っていて、最後に「カナダ留学実記」というのが載っている。これは、ブリティッシュ・コロンビア大学留学中に、アメリカ人教師二人と険悪な関係になり、博士号執筆資格試験に落ちて帰国するまでを描いたものだが、実はこれにはちょっとした後日談があり、そこに竹内先生が出てくるのである。そこは書いたのだが、迷ったあげく削除した。旧式のワープロのフロッピーに入っているはずだが、もう取り出せないので、思い出して書いてみる。
 何しろ博士号はとれないし、その他行きづらい事情があって、一九九二年七月に帰国したあと、私は東大比較文学の研究室へ足を向けるのが嫌だった。だが秋ごろになり、よんどころない事情で出向いたが、髭を生やしていたのはちょっと変装のつもりでもあったか。
 だが、駒場東大前の駅の、改札を出たところで、竹内先生に会ってしまった。
 「ああ君か。髭を生やしているんで分からなかった」
 と言ったあと、先生は、
 「あとで研究室へいらっしゃい」
 と、いくぶん暗い顔つきで言った。
 私は修士論文で『南総里見八犬伝』と英米文学の比較というのを書いて、芳賀、平川、行方といった先生方からは好評を得たが、今考えるとあれはまともな学問ではない、若書きの文藝評論であった。そのため昨年、まともだと思えるところを抜き出して『謎解き『八犬伝』』(河出新書)を出したのである。その修士論文は九○年に『八犬伝綺想』として福武書店から刊行していたが、さしたる反響は得られなかった。
 当時の東大比較はちょっと特殊で、本来の学問の規矩から外れたものも認めてしまうところがあり、佐伯順子の『遊女の文化史』などはその最たる成功例だったろう。竹内先生は、それを苦々しく思っているということが、あとで分かった。中でも凄かったのが伊東俊太郎で、「正しくてもつまらない論文より、間違っていても面白い論文のほうがいい」と放言したことがある。おそらく伊東は理系出身なので、文系の学問というものをまともな学問だと思っていなかったのだろう。現に伊東が『比較文明と日本』(1990)という本に書いた比較文化論は、平川祐弘から「エッセイでしかない」と裁断されていた。といっても、それ以外の多くの学生は、もっとちゃんとした実証的研究をしていた。
 竹内先生の研究室へ行き、どういう風に話が始まったのかは覚えていないが、結局は、私が書いたものが学術論文か文藝評論かというところに帰着した。もっとも、この議論はカナダですでに鶴田欣也先生とやっていたことだったが、改めて私は「文藝評論だからといっていい加減でいいということはないと思います」と反論し、先生は「そりゃそうだ、だが学問というのは正確なんだよ」というようなことを言った。
 もっとも、これより前のことだが、竹内先生は、研究するなら一流の文学者をやれ、と言っていて、そもそも一流か二流かといった判断は学問的にはできないことで、文藝評論的なものではないか、矛盾だ、と言っている人もいて、私もその通りだと思った。実はノースロップ・フライは『批評の解剖』で、学問はミルトンが偉いとかそういうことを言うものではないと言いつつ、自分はシェイクスピアをやっているのは、偉いと思っているからだという矛盾を犯している。
 少し悪い雰囲気で研究室を去り、私は惨めな気分で家へ帰った。それから何年にもわたって、私は、学問とは何かということを考え続けた。九四年に大阪大学へ赴任し、そこで博士論文を書いて、精神を病み、夜中に表へ飛び出して延々と歩いたりした。
 竹内先生は南方熊楠修論を書いた松居竜五のことは評価していて、あとで東大へ呼び戻すつもりだったらしいが、うまく行かなかったのは、英国へ留学した松居が博士号をとってこなかったからかもしれない。
 そういえば、二〇〇一年から私は駒場で英語を教え始めて、お昼どきになると比較研究室へ行って、生協で買ってきたいなり寿司などを食べるのが常だったが、ある時竹内先生が来て、「いなり好きなの?」と言ったことがあった。
 最終的に私は、ポストモダンはもとより、精神分析もテキスト論もユングも学問ではないという立場に到達した。もっともそのことは、これらを信奉する学者たちとの決別や軋轢を生むことになった。今では下手をすると、書誌学と伝記研究くらいしか学問ではない、くらいに思うことがある。
 福田和也について、最初の『奇妙な廃墟』だけが学問で、あとはアジビラだとスガ秀実が言っていたが、実際はエドワード・サイードが博士論文以降書いた『オリエンタリズム』だってアジビラだし、あの当時流行したポスコロとかカルスタの論文のほとんどがアジビラである。
 話を戻すと、竹内先生は、マラルメ専門のフランス文学の俊英として駒場へ来たのに、芳賀先生に気に入られて後継者にされ、ずいぶん苦しんで比較に合わせようとしていた。空海をやったのもそうだし、ほかにも色々あった。2007年に60歳で定年前に駒場を辞めて郷里の香川県へ引っ込んだが、2015年の『比較文学研究』には、自分は東大比較文学会から退会するという文章を寄せて、最後に「さようなら」と書いてあった。

小谷野敦

アランと反ユダヤ主義

大岡昇平の『小林秀雄』という、2018年に中公文庫でオリジナル編纂されたエッセイ集に、山城むつみの解説がついている。山城はここで、「エミール・オーギュスト・シャルチエ」の「アラン」について書いている。アランは第一次大戦に従軍したあと、「反ファシズム知識人監視委員会」の一員となったが、アランはその絶対平和主義の立場から、ヒトラーと戦うことをよしとせず、戦後、ヴィシー派とか敗北主義者と呼ばれて苦しみつつ81歳で死んだとあり、それが微妙に小林秀雄批判になっている。

 しかしアランは、この山城の解説が書かれた2018年に公刊された日記で、自分はドイツに勝って欲しいと思っているという反ユダヤ主義の思想を明らかにしていることが分かったという。山城はおそらくそのことを知らずに書いたのだと思う。

小谷野敦

大江健三郎の小説では

そういえば、大江健三郎の小説では何を読んだらいいかのリストを作っていなかったので、ここで作る。

「奇妙な仕事」

「人間の羊」

「空の怪物アグイー」

『個人的な体験』

「性的人間」

「セヴンティーン」「政治少年死す」

万延元年のフットボール

『みずからわが涙をぬぐいたまう日』

同時代ゲーム

筒井康隆はいかに独特か」(『筒井康隆全集』)

「静かな生活」

『キルプの軍団』

『取り替え子(チェンジリング)』

『憂い顔の童子

『さようなら、私の本よ!』

『水死』