この数日、奥野健男の『三島由紀夫伝説』(新潮文庫)を読んでいた。これは1993年に新潮社から刊行された大冊で、藝術選奨文部大臣賞を受賞している。奥野は97年に71歳で死去し、この文庫版は奥野の意向を体して、森孝雅(三輪太郎)が三分の二に圧縮したものだというが、私は元来三島が嫌いで、戯曲、通俗小説、文藝評論においてはその才能は認めるが、純文学小説はまったく受け付けないので奥野のこれも読んでいなかったのだが、佐伯彰一先生の本を読んでいてふと気になって図書館から借りてきたのである。
読んでいて、三島と親しいと思っていた奥野が、存外冷淡であることに気づき、『仮面の告白』を高く評価している点と、村松剛が頑強に認めなかった三島の同性愛をあっさり認めていることに驚いていると、『金閣寺』の評価へ来て、奥野が読んで感じたことが、私が感じたことと同じなのに驚いた。
私は『金閣寺』に、まったく共感できないし感心もできない。なんで金閣寺が「美」の象徴で、それを焼くことに何の意味があるのか分からない。大学一年の時の同級生も、「あれ(金閣寺)を読んだら(あまりにくだらなくて、三島を読むのは)やめるよ」と言っていたくらいだが、奥野もそう感じたという。
「ぼくが『金閣寺』にどうしても共感できないのは、ぼくが現実の金閣を少しも美しいと思っておらず、読みながらたえず貧弱な建物のイメージ、つまりにせの美の象徴が眼前に去来するためであるかも知れない。」
しかし『金閣寺』は絶賛され、読売文学賞をとり、柳美里が『ゴールドラッシュ』を出した時も、新潮社的に『金閣寺』と並べて宣伝されたが、私には『金閣寺』と並べられただけでつまらない小説のような気がしてしまう。あとで水上勉が『金閣炎上』を書いたが、これは犯人の林養賢を水上が知っていたからだろう。だが酒井順子は『金閣の燃やし方』などというのを書く。これは読んだが何が言いたいのかまったく分からなかった。そして内海聡の『金閣を焼かなければならぬ』が大佛次郎賞をとる。この著者は精神科医で、林養賢を統合失調症だと言っている。奥野もそう言っており、それと同化した三島も気が狂っていったのではないかと書いている。内海の本は、なのにどういうわけか『金閣寺』は名作だというところへ行く理路がまったく理解できなかった。
もっとも奥野も、そのあとで、金閣寺は三島が嫌った「女」の象徴で、祖母と母を否定したのだ、などと意味づけはしているが、私にはそういう操作がうまく行っているとも思えない。三島は通俗小説には才気を示したが、『金閣寺』を頂点とする純文学小説はすべて愚作だとすら私には思える。
もっとも奥野も、世評は芳しくないこと夥しかった『鏡子の家』や『春の雪』も褒めているし、『金閣寺』のところと、三島の「女嫌い」のところ、あと最後になんで「天皇陛下万歳」だったのか、と疑問を呈するところに、冷静な筆致を感じた。
(小谷野敦)