アランと反ユダヤ主義

大岡昇平の『小林秀雄』という、2018年に中公文庫でオリジナル編纂されたエッセイ集に、山城むつみの解説がついている。山城はここで、「エミール・オーギュスト・シャルチエ」の「アラン」について書いている。アランは第一次大戦に従軍したあと、「反ファシズム知識人監視委員会」の一員となったが、アランはその絶対平和主義の立場から、ヒトラーと戦うことをよしとせず、戦後、ヴィシー派とか敗北主義者と呼ばれて苦しみつつ81歳で死んだとあり、それが微妙に小林秀雄批判になっている。

 しかしアランは、この山城の解説が書かれた2018年に公刊された日記で、自分はドイツに勝って欲しいと思っているという反ユダヤ主義の思想を明らかにしていることが分かったという。山城はおそらくそのことを知らずに書いたのだと思う。

小谷野敦

大江健三郎の小説では

そういえば、大江健三郎の小説では何を読んだらいいかのリストを作っていなかったので、ここで作る。

「奇妙な仕事」

「人間の羊」

「空の怪物アグイー」

『個人的な体験』

「性的人間」

「セヴンティーン」「政治少年死す」

万延元年のフットボール

『みずからわが涙をぬぐいたまう日』

同時代ゲーム

筒井康隆はいかに独特か」(『筒井康隆全集』)

「静かな生活」

『キルプの軍団』

『取り替え子(チェンジリング)』

『憂い顔の童子

『さようなら、私の本よ!』

『水死』

 

孫武と女官たち

横山光輝の『史記』を読んでいたら、孫子のうちの一人、孫武の逸話があった。孫呉が新しい君主に仕えて、自分のやり方を見せるため、女官たちを集めて、太鼓を叩いて、右と言ったら右を向き、左と言ったら左を向けと命じた。だが実際にそれをやると、女官たちは笑うだけだった。孫武は主君に謝って、私の教え方が悪かったと言ってもう一度説明し、繰り返したが、女官たちは笑うだけだった。そこで孫武は女官の長二人を斬り殺した。そのためほかの女官たちは震え上がって、それからは右と言えば右を向くようになった。

 私は『史記』をちゃんと読んでいないのだが、この話はいかにも無気味である。一度も訓練を受けていない女官が、軍事的説明を受けて笑うだけだったというのは、分かるようだが、日本の歴史でこういう話を読んだことがない。そして、なぜ女官がただ笑うだけだったか、もちろん原文には説明がないし、マンガにもない。どうにも無気味である、と言うほかない。

奥野健男の『金閣寺』論

この数日、奥野健男の『三島由紀夫伝説』(新潮文庫)を読んでいた。これは1993年に新潮社から刊行された大冊で、藝術選奨文部大臣賞を受賞している。奥野は97年に71歳で死去し、この文庫版は奥野の意向を体して、森孝雅(三輪太郎)が三分の二に圧縮したものだというが、私は元来三島が嫌いで、戯曲、通俗小説、文藝評論においてはその才能は認めるが、純文学小説はまったく受け付けないので奥野のこれも読んでいなかったのだが、佐伯彰一先生の本を読んでいてふと気になって図書館から借りてきたのである。

 読んでいて、三島と親しいと思っていた奥野が、存外冷淡であることに気づき、『仮面の告白』を高く評価している点と、村松剛が頑強に認めなかった三島の同性愛をあっさり認めていることに驚いていると、『金閣寺』の評価へ来て、奥野が読んで感じたことが、私が感じたことと同じなのに驚いた。

 私は『金閣寺』に、まったく共感できないし感心もできない。なんで金閣寺が「美」の象徴で、それを焼くことに何の意味があるのか分からない。大学一年の時の同級生も、「あれ(金閣寺)を読んだら(あまりにくだらなくて、三島を読むのは)やめるよ」と言っていたくらいだが、奥野もそう感じたという。

「ぼくが『金閣寺』にどうしても共感できないのは、ぼくが現実の金閣を少しも美しいと思っておらず、読みながらたえず貧弱な建物のイメージ、つまりにせの美の象徴が眼前に去来するためであるかも知れない。」

 しかし『金閣寺』は絶賛され、読売文学賞をとり、柳美里が『ゴールドラッシュ』を出した時も、新潮社的に『金閣寺』と並べて宣伝されたが、私には『金閣寺』と並べられただけでつまらない小説のような気がしてしまう。あとで水上勉が『金閣炎上』を書いたが、これは犯人の林養賢を水上が知っていたからだろう。だが酒井順子は『金閣の燃やし方』などというのを書く。これは読んだが何が言いたいのかまったく分からなかった。そして内海聡の『金閣を焼かなければならぬ』が大佛次郎賞をとる。この著者は精神科医で、林養賢を統合失調症だと言っている。奥野もそう言っており、それと同化した三島も気が狂っていったのではないかと書いている。内海の本は、なのにどういうわけか『金閣寺』は名作だというところへ行く理路がまったく理解できなかった。

 もっとも奥野も、そのあとで、金閣寺は三島が嫌った「女」の象徴で、祖母と母を否定したのだ、などと意味づけはしているが、私にはそういう操作がうまく行っているとも思えない。三島は通俗小説には才気を示したが、『金閣寺』を頂点とする純文学小説はすべて愚作だとすら私には思える。

 もっとも奥野も、世評は芳しくないこと夥しかった『鏡子の家』や『春の雪』も褒めているし、『金閣寺』のところと、三島の「女嫌い」のところ、あと最後になんで「天皇陛下万歳」だったのか、と疑問を呈するところに、冷静な筆致を感じた。

小谷野敦

大岡昇平『コルシカ紀行』

私は大岡昇平が好きなので、もう30年くらい前に、何か一冊書こうかと思ったが、『武蔵野夫人』が面白くないし、『花影』も、高見順が言った通り、大岡の家庭で起きたこととかを省いているため肝心のところがない。それに『レイテ戦記』を読んでいない。戦記ものが苦手なので、それで大岡について書くのも無理があろうし、だいたい大岡昇平について一冊書いても、商業的に出してくれるところなどない(か、無印税になる)。

 今度『コルシカ紀行』(中公新書、1972)というのを読んでみた。私は日本に、プロスペル・メリメについての本が一冊もないのをひどいと思って、英語の伝記を見ながら書こうかと思ったこともあるが、それはいくら何でもだし、これも売れないから出してもらえないのでやらない。大岡にはメリメについて書いた短編を集めた『凍った炎』というのがあるが、これが日本では唯一メリメについて書かれた本といえるかもしれない。さてコルシカ紀行というのは、71年に62歳になる大岡がヘルシンキで講演をしたあと、ドイツ、フランスなどヨーロッパに五週間滞在した時の紀行だが、ヘルシンキで足を痛めて、こむら返りが頻繁に起こるようになり、満足な紀行はできなかったが、『海』にナポレオンのことなどを含めた紀行文を連載し、別途『海』に載せた「島」というコルシカ素描を合わせたもので、本としての出来は良くない。

 しかし後半、特にコルシカ島とは関係ないサン・テグジュペリの話になると、ジュール・ロアの『サン・テグジュペリの愛と死』の翻訳を読みながら、筆が飛躍し始める。大岡は大人向けのサン・テグジュペリを愛読していたが、戦後「児童文学研究家を称する皇太子妃が」『小さな王子』(星の王子)のことを言うと50年代後半の日本で流行った、と書いたり、サン・テクスが自分が書いたものによって戦場へ赴き死んだ若者がいるのではないかと書いたのを、サンに職業的物書きとしての意識がなかったからで、職業作家は自分の書いたものに責任をとらないものだと痛烈な皮肉を書いたりしている。

 この時あたかも天皇が欧米訪問をしており、ニクソンと対談しているのだが、投石する者がいたとかで大岡が「何という国辱。天皇を外へ出すべきではない」としているのは、やはり大岡の天皇に対する態度が両義的であるのを感ぜざるをえない。

 また『人間の土地』はむしろ随筆なのだが、フランス・アカデミーはこれを小説と認めて小説大賞を授与した、と書いて「小説は本格小説でなければならないとか、私小説は日本独特の随筆であるとか、堅苦しいことをいっていたのは、日本の文壇とアメリカの大学の創作科の教師だけだった」とあるのは、アメリカの大学でそういう現象があったのかと(大岡はこれより前にアメリカに留学している)はっとさせられるものがあった。

小谷野敦

言わないようにしよう

浅羽通明という人が、2007年の著書でだったか、もう天皇制批判を強く言うのはやめる、と宣言したことがあって、あとで見た私は、「保身」を感じて、ちゃんと言うべきじゃないかと言ったことがある。

 昨年、東京科学大学(旧東工大)で比較文学会があり、最後に「科学と文学」みたいなワークショップがあって、田村義也が司会をし、小松史生子、信岡朝子、伊藤亜紗の三人が発表をした。うち後輩で面識があるのは田村と信岡さんで、信岡さんは本の書評をしたこともある。伊藤亜紗だけが非会員で、学会運営の君野隆久が参加を望んだという。

 この時、伊藤亜紗だけはレジュメを配布せず、パワポは使ったが見ているこちらには何も残らないようにしたから、記憶で言うと、「科学は社会的構築物だ」と言ったので、あっ構築主義だ、とそれを学問として認めていない私は驚いたのだが、あとで自由に質問することは認められていなかった。さらに伊藤は「それをあまり強く言わないようにしたい」と言ったので、こちらは、もちろんあまり言わないでほしいと思ったのだが、浅羽の時とは逆になったのが変な感じがした。しかし理系の大学の教授をしていて「科学は社会的構築物だ」と言うのは驚きであった。

小谷野敦

リチャード・マッキノン(Richard Nicols Mckinnon, 1922-1994)

佐伯彰一先生の『回想(メモワール)』(文藝春秋、2003)に、リチャード・マッキノンというバイリンガルの日本文学研究者が出てくる。マッキノンは父親が小樽高商で英語を教えており、母親が日本人で、小樽生まれのバイリンガルだったという。小樽高商では伊藤整も教えたから、伊藤の『若い詩人の肖像』にマッキノン父も出てくるという。

 マッキノンは金沢の第四高等学校に学んだが、その時日米開戦となり敵国人として逮捕・抑留された。敗戦後、渡米して、ライシャワーに見出されてハーヴァード大学芥川龍之介の論文を書いて博士号をとったのが1957年ころか。それからシアトルのワシントン大学の教授になり、そこで鶴田欣也上智大卒)を教えたのだという。鶴田先生の博士論文も芥川だった。そして1962年に佐伯彰一フルブライトで渡米した際、マッキノン、鶴田と知り合ったという。

 しかしマッキノンの著書は、

北星堂書店、1957.

 くらいしか見つからないし、だいたい私が鶴田先生からマッキノンの名前を聞いたことがない。