柴田錬三郎賞受賞作なので、娯楽小説として見ると、真ん中へんのストーリー展開はうまいし、前半は文
章もよく統御されているが、ライが消えてからは話の落としどころが分からなくなって迷走している。特
に母親に対する態度や考え方は、40年前の少女マンガが親に対してとっていた態度と変わらず、「キャバ嬢
やホストといった社会のアウトサイダーが正しく、普通である母親は間違っている」という思想で、凡庸
でさらにポリコレが入っていて良くない。そこから遡って考えるとこのユカリという主人公は銀行員だと
いうことになっているが、銀行での描写はほとんどなく、オタクで腐女子だから浮いているとか27歳で恋
愛経験がないとか書かれつつ、この小説内では誰からも好かれて、言葉も巧みに制御された人物になって
おり、「暗夜行路」みたいに、ユカリ一人まかり通る小説になってしまっている。しかし「腐女子」と言
いつつ、フィクションの中の一人に「推し活」しているだけで、BL化していないようなのは何かの戦略な
のだろうか。母親のシーンがなければ三点だった。
渡辺淳一と亀井勝一郎
渡辺淳一の初期短編「訪れ」(『文藝』1967年12月号)を読んだ。これは直木賞候補になっており、文庫『死化粧』に入っている。ちょうど一年前に死んだ亀井勝一郎が「K氏」として登場する。渡辺が同人雑誌賞をとって東京の授賞式に行った時に「K氏」と会うが、K氏は手術をしたあとらしく、ガンは治らないのかね、といった話を渡辺本人であろう語り手とする。『大和古寺風物誌』という著書が出てくるから亀井であることは分かるが、山本直人の『亀井勝一郎』を読んでいてこういう短編があるのを知った。
小説の本筋は、語り手の医師が勤務先の北海道の病院へ帰って、亀井と同じ59歳で胃がんの小学校校長の宇井という男に対峙する話で、最後に荒れ狂って鞭で妻を打ち据えたあとで死んでいく。なんで鞭なんかがあったのかは謎である。直木賞の選評では、なぜこれが直木賞なのか、芥川賞のほうじゃないかと言われている。当時はこういう、文藝誌に載った短編でも直木賞候補になったのだ。
当時は吉川英治とかよくガンで死んでいたので、「文壇も癌ノイローゼでね」と亀井が言っているが、私はこの三年後にガンで死んだ伊藤整のことを思い出した。伊藤の日記を読むと、食道とか咽頭のあたりがガンじゃないかとずっと気にして、これこれだから大丈夫だとか考えていたりして実に恐ろしい。それでいて医者には行かないのである。
「バニー・レイクは行方不明」と七瀬シリーズ
1965年の「バニー・レイクは行方不明」という英国映画がある。私は一度観たのだが、どういうわけかこの題名が覚えられず、「ペニー・レインは行方不明」で検索して、あれ、ないな?と思っていた。2005年のジョディ・フォスター主演の「フライトプラン」の元ネタといわれ、ロンドンへ越してきた女性が、自分の娘のバニー・レイクがいなくなった、と言っているのに、警察が捜しても出てこず、周囲の人物でもそんな娘は見ていないと言うので、主人公の妄想ではないかと思われるが、最後に発見されるというサスペンスものだ。ここで重要なのは、映画の観客もバニー・レイクの姿を見せられていないので、途中で、この主人公は頭がおかしいのではないかと思ってしまうことである。これに対し「フライトプラン」では、姿を消す少女の姿を観客は見ているからそういうことはない。
ところが怖いのは、統合失調症患者がこの映画を観ると、勇気づけられてしまうということがあるからだ。
筒井康隆の「七瀬シリーズ」も、主人公の火田七瀬はテレパスで、そのため続編「七瀬ふたたび」では謎の組織から超能力者たちが命を狙われるという展開になるが、これも統合失調症患者は自分がテレパシーが聞こえると思うことが多いため、筒井を「理解者」だと思って手紙をよこす吉外がいたらしい。
吉村昭の『破船』と「日本残酷物語」
吉村昭は、純文学のほかに多くの歴史・実録小説を書き、もっぱらそちらで人気のある作家だが、中に『破船』(1982)というのがある。中編小説程度の長さだが、タイトルは久米正雄が、松岡譲と恋の鞘当てをしたのを書いてベストセラーになった『破船』と同じだが、吉村のは歴史小説めかして、徳川時代にどの地方ともしれない漁村で、難破船が漂着すると中のものを、食糧や金銭などを奪ってそれで生計を立てているという恐ろしい話である。それがある時、難破船を襲ったらそれは伝染病のため船員が死に絶えた舟で、その村に伝染病がはやってしまうという展開を見せる。
しかし、この話には史料の裏づけがなく、吉村の想像を小説にした希有な作品のような気がする。そしてこの話は、『日本残酷物語』に入っていそうな話である。『日本残酷物語』といえば、宮本常一の「土佐源氏」が入っていたことで知られるが、この逸話が実話ではなく宮本が書いたポルノグラフィがもとになっていることはすでに明らかにされている。
仮に歴史学者が、こういう「モンド映画」みたいな話を史料に使ったら大変なことになるだろう。『破船』のような村は、実際にはありえないし、徳川幕藩体制はそんな村を見逃すほど間抜けではない。だから、これを歴史のありえた話として扱うことはすべきではあるまい。吉村昭にもそんな作品があるのだ。
(小谷野敦)
川村二郎『限界の文学』(1969)を読む
近ごろ、文藝評論は滅びるとか、小説家が文藝評論を書き出したとか言われているし、昔の文藝評論はどんなだったのかと、川村二郎(1928-2008)の『限界の文学』という、講談社が設定した亀井勝一郎の第一回受賞作に目を通してみた。この亀井勝一郎賞というのは、終りのころに柄谷行人の『マルクスその可能性の中心』や、野島秀勝の『迷宮の女たち』が受賞していて、どちらも文庫になっていて、私は面白く読んだ。結構短命に終わった賞で、それからしばらくして新潮社が小林秀雄賞を作ったが、これはほどなく、文藝評論の賞ではないことが分かり、今では文藝評論専門の賞というのはほとんどない。
川村二郎というのは、軍人の家に生まれ、ドイツ文学を専門とし、佐伯彰一らとともに批評を始めた人で、鏡花とか露伴とか百間とかの幻想文学を好み、吉行淳之介や中上健次が好きで、保田與重郎を論じたり「イロニー」とか「アレゴリー」とかよく言う人で、右翼っぽくて、25年にわたって読売新聞の読書委員を務め、藝術院会員にもなった人だが、文藝評論家というのは伝記の対象にならないので、伝記というのはない。今ではほとんど読まれていない。朝日新聞記者の川村二郎(1941-2020)は同名異人である。(小林秀雄も「論」はあるが伝記はない。書簡も日記も公開されていないからである。書簡や日記が出てこないとちゃんとした伝記は書けない)
川村の批評家としてのデビュー作は、折口信夫の「死者の書」論(1961)だとされており、それはこの論集に入っている。だが順番に読むと、はじめのほうに、専門のドイツ文学についてのものが並んでいる。ベンヤミン、アドルノ、ルカーチ、ホフマンスタールといった具合に出てくるが、難しくて歯が立たない。
そういえば昔、イルメラ=日地谷・キルシュネライトというドイツ女性が『私小説』という評論を書いて、小林秀雄の「私小説論」をやり玉にあげ、日本の文藝評論は論理的に書かれていないと言っていた。私は当初感心して読んだのだが、そのうち、ドイツの文藝評論だってどの国だって文藝評論というのは非論理的なもので、アドルノだってベンヤミンだって、学術論文として書いたもの以外は非論理的ではないかと思った。
さて川村に戻ると、「批評の生理」という、これは『ドイツ文学』という学術誌に載ったものだが、アドルノとルカーチの、批評というのは学問なのかそれ自体文学なのかという問題が論じてあり、興味をもって読んだ。そこではたとえばクルチウスは、学者としては一流だが批評家としては落ちるといったことが書いてあって面白かった。これによると、ルートヴィヒ・ローナーという人の『ドイツのエッセイ』という本があるらしいが、翻訳はないようだ。
この本に載ったものを書いたのは川村が三十代の時だが、ドイツ文学はもとより、古代ギリシャ文学から現代ギリシャ文学、近世浄瑠璃までやたらとものを知っているのに呆れるが、批評家の若いころというのはこのように自分の博識を誇ろうとするものだ。たとえばワグナーを論じるのに、自分は声楽が苦手なので、いっそ「ジークフリート牧歌」がいいと言ってみたい、などと書くのにはちょっと苦笑して、それならタンホイザー序曲でもローエングリンの第三幕への前奏曲でもマイスタージンガー序曲でもいいではないかと思ったのだが、多分それらを出すのは恥ずかしいと思ったのだろう。
始めは、ドイツ文学と日本文学くらいが知識の範疇かと思っていたが、ダレルの『アレクサンドリア四重奏』の梗概まで教えてくれた(前のエントリー)し、ビュトールとかロブ=グリエのヌーヴォー・ロマンについてもひとくさり知識を披露してくれた。ケレーニイを重んじているようだがユングについてはバカにしているようだ。とにかく神話が大層好きらしく、神話を現代化した『ユリシーズ』とか、エリオットの『荒地』とかも出てくるが、私は『荒地』というのは『祭祀からロマンスへ』などの参考文献で勉強してからでないと分からないものだということを確認できた。
あと現代ギリシアのニコス・カザンザキスという作家のことも書いていて、この人は「その男ゾルバ」という映画化もされた作品が有名で、ノーベル賞にも推薦されたがギリシャ政府が邪魔をして、受賞したカミュが、カザンザキスのほうが自分より百倍ノーベル賞にふさわしいと言ったとかいう。川村はこのカザンザキスの「オディッセイ」という「オデュッセイア」の書き直しを英訳で読んだらしく、実に熱をこめて語っているのだが、わざわざ英訳で読む気にもならない。
川村の代表作で文庫にもなっていた『銀河と地獄』は昔読んだ。これは日本の幻想文学を論じたもので、中に近世の浄瑠璃作者たちの章があったが、川村はかなり浄瑠璃には熱中していたらしく、若い頃浄瑠璃の素晴らしさについて熱弁したら、そこにいた人に、あんな愚劣なものを褒めるのは日本文化への侮辱だと怒られたと書いている。谷崎潤一郎は、浄瑠璃を「痴呆の芸術」と呼び、特に「寺子屋」のように子供を犠牲にするのがイヤだと言っていたが、川村はどういうわけか谷崎の名は出さず、この点について「寺子屋」は礼讃し、かえって「盛綱陣屋」のほうがひねこびていると非難する。さらに「摂州合邦辻」で、折口の論を引いて、玉手御前の恋が策略だとのみ考えたのでは面白くない、ウソから出たまことだと熱弁を振るっていて、この辺は、ああ川村二郎だなあと思う。私の師匠の渡辺守章も、歌右衛門の玉手御前を見てきて「蹴殺すど」ってところが恋する女のように見えないんだよね、と言っていたことがある。
最後は最近の日本文学ということで河野多恵子について書いてあるが、やっぱり幻想文学の、血なまぐさいのが好きなんだなあと思った。
あまり川村二郎が好きではないが、文藝評論家というのはこのくらい知識がないとやっちゃいけないよねえ、という気がする。
(小谷野敦)
アレクサンドリア四重奏
ロレンス・ダレルの『アレクサンドリア四重奏』は、「ジュスティーヌ」「バルタザール」「マウントオリーブ」「クレア」の四部作だが、私はその全部を訳した高松雄一に英文科で教わっておりながら、「ジュスティーヌ」一編だけ読んで退屈だったので以後読まなかった。なんでもこれは、同じ物語を次々と別の角度から語るという形式らしいが、それもいかにも現代小説らしく、興味がないので知らずにいた。川村二郎の『限界の文学』に、そのあらましが簡単に書いてあったので引用する。
「第一部(ジュスティーヌ)では、女主人公が物語の語り手である貧乏詩人を愛する。そこにあるのはいかにもいたましげな悲恋物語である(私はそういうことはまったく感じなかった)。しかし第二部(バルタザール)では、その愛は、別のある作家との交情を隠蔽するための、いわば愛の偽装だったということになり、さらに第三部(マウントオリーブ)にはいると、ジュスティーヌの男たちとの交渉は、ある政治的陰謀のための情報活動にすぎなかったという事実が明らかになる。一方作家の方はといえば、突然謎めいた自殺をとげ、自殺の理由は、最初は、作家としてのおのが営みに対する絶望的な倦怠にあるとされるのだが、ついで、外交官でもあった彼が、職務上の失態を償うために死を選んだという解釈がくだされ、最後に、妹との不幸な愛が自殺の真の原因だったという、法外な解答が提出されるのである」
バカバカしい、としか思えない。
(小谷野敦)